February 28, 2013

すべての必要が紡がれる

今日、あなたはどれだけの感謝を数えましたか?

心を落ち着け、ほんの一瞬ナチュラルな自分を取り戻して
振り返った時、今日1日に、意識することも言葉にすることも
忘れて通り過ぎてしまったものや、つい向き合いそびれて
しまった様々なものが思い起こされてくるはずです。

どんな些細な物事にも「感謝」を感じられるように、
いつでも心に「ほんのちょっぴりのゆとり」を持っていたい。

何をしくじっても、何をし忘れたとしても、
決してその日の感謝を数え忘れることなく、日々を重ねたい。


自分程度の人間に何ができるのだろうか。
自分に自信を持てるようになる日などくるのだろうか。

そんな風に思っていた学生時代、ある本にこんな話があった。

「友人の友人の友人の・・・と数えていくと、誰でもわずか5人先に
米国大統領がいる。 目に見えないネットワークが既にある。
だから、これから何があってもあきらめることなく、感謝を忘れず、
めざし続けていけば、いつか必ず、君がやろうとすることの実現を
本気で応援してくれるスゴイ人達とつながっていけるのだ。」

月日が過ぎて、

「次世代の子ども達の心に灯りをともしたい、歓びと希望の光を
手渡したい」
と強く願い、這い蹲っても進み続けているうちに、
素晴らしい方々に出会い、そしてとうとう、米国大統領と食事を
させていただくご縁に至り、ついに本に書いてあった通りになった。


何もない僕が唯一持っていたもの。
あきらめられない「想い」

いつだって、それが彼らの琴線にふれ、有形無形の導きと後押し
を受けて、これまでも、これからも、1歩ずつ1歩ずつ、前へ前へと
進み続けているのだと思う。


たとえ今は、
どれほど自分の無力さを感じていても、

どれほどそれが遠くにかすんでいても、

どれほど打ちのめされたとしても、

見えないだけで、全ての必要はシンクロニシティーでそこにある。


だから、
顔を上げて、目に映る全てを感謝で数えよう。

強い想いがシンクロした時、見えない糸で全ての必要が紡がれる。  



  



Posted by exceedblog at 03:32clip!私からあなたへ 
February 24, 2013

体罰の是非について

「体罰問題」についての追記です。

※先に前記事「教育のあり方・指導のあり方」をご一読ください。


前回の記事にて、「昨今の体罰問題」について、
「どう言い逃れしようとそれは犯罪であり、一切許されない」
と書きましたが、実際には私は体罰容認派です。

その説明のためには、ここで、昨今の体罰問題の中でもう1つ
ハッキリと線引きをしておかなければなりません。


そもそも、昨今の体罰問題「体罰」として是非が問われて
いる問題は、実は「体罰」ではなく、

指導力・教育力の欠落した指導者や教師や親たちが、
体罰とか愛のムチとかシツケなどの言葉を借りて行なっている
「傷害」「いじめ」「虐待」事件であり、

本来は法によって裁かれるべき、人の道を外れる行為や
犯罪をした者に対して、法の手に委ねない(見逃す)代りに
罰を与えて悔い改めさせる、

あるいは

人の道を外れる行為や犯罪を阻止するために、説得しても
聞かない者に対して、その相手を大切に思うからこそ、自らが
暴力という手法を用いてでも、何が何でも引きとめようとすること


が、本来の「体罰」ですよね?

それでも、個人が人を裁いて罰を与えることが許されていない
以上、教師は勿論、上司や同級生や、たとえ親であっても、
やはりれっきとした犯罪なのです。

だからやっぱり、


そこに本当の「愛」があると言うのなら、

なぜ本気で学び、指導力・包容力・掌握力を身につけないのか。
なぜ安易に「犯罪」に手を染めるのか。

その愚かさを悔い改めるべきではないのか。
  と思うのです。


そこにしっかり線引きをした上で、

万が一にも、我が子が人の道を外れるような行為をした時に、
教師や指導者や周囲の誰かが、うちの子の将来を本気で思って
殴ったのなら、

私は彼らを責めることなく、「ありがとう」と言うと思う。

そしてまた、我が子が授業中におしゃべりをしていた時、先生に
ゲンコツで頭をゴチンとやられたなら、笑い飛ばしてしまうと思うし、
それで文句を言うような親は、まさにモンスターペアレンツなのだ
と思います。

(ただし、ケガするような過剰なものは論外だし、女の子に対しては
1/10くらいでお願いします、という感じですが)


<問題点のまとめ>

・今問題になっている「体罰」は「虐待事件」を指し、「体罰」ではない。
・根底に指導者、教師、親らの力不足・努力不足・責任転嫁がある。
・結果主義の誤ったリスペクトがあり、あるべきリスペクトに欠けている。
・本当の「体罰」であっても、やはり犯罪である。
・しかし教育・指導として容認される範疇はあり、すべてを問題視するべきではない。
・指導者・教師・親ら同士の信頼関係とコミュニケーションが不足している。


という前提で、この金八先生のビンタは容認します。

    


  



Posted by exceedblog at 03:53clip!めざすべきもの 
February 01, 2013

教育のあり方・指導のあり方

昨今の「体罰問題」について。

かつてスポーツやその産業に関わった者として、意見を述べます。


まず、虐待・言葉の暴力(心理的虐待)・性的虐待・無視・ネグレクト...
がDVの定義である以上、殴ったかどうか、グーか平手か、言葉だけ
で手を出したかどうか、という議論は笑止千万で、
尊厳を踏みにじった時点で全てが暴力であり、それは明確な犯罪です。

商業化されている高校野球(甲子園大会)でさえ文部科学省の管轄
であり、学生スポーツは教育の一環である、というのが大前提である
ことを考えると、教育の現場で指導者が犯罪をしたことになります。

プロスポーツや企業に至っては、まさに社会人が犯罪をしていること
になり、愛があるとか無いとかは言い逃れで、刑事罰に値します。

勿論、学校や職場やチームでの、いじめや差別も、同列です。

したがって、
「体罰が日常的に行なわれていた=犯罪の温床であった」
「一度でも体罰があった=そこで犯罪が起こった」

ということに他なりません。


このボーダーラインを引いた時、

体罰に至ってしまう指導者は、指導力・包容力・掌握力が不充分
あるにも関わらず「結果」を求めるために、本来なら、指導者自身の
「指導力・包容力・掌握力」を培い伸ばすために、指導者としてもっと
多くを学ばなければならなかった
ところを、生徒・選手・部下のせい
にして、尊厳を踏みにじるような罰を与えている、「責任のなすりつけ」
による理不尽な「犯罪」なのだ
と言い切れます。


加害者側は「ふざけただけ」でも、被害者側が「いじめられた」と感じた
なら、それは明確ないじめである。
それを踏まえて、「愛があれば・・・」と体罰を容認する人たちに言いたい。


スポーツで薬物が禁止されるのは何故なのか、考えてみなさい。

そこに本当の「愛」があると言うのなら、

なぜ本気で学び、指導力・包容力・掌握力を身につけないのか。
なぜ安易に「犯罪」に手を染めるのか。

その愚かさを悔い改めるべきではないのか。



「褒めて伸ばす」は、部分的であり、それだけを是とするなら、机上論
であると思います。

「叱る」場面も、時として絶対に必要だと思います。

どうやって、子ども達に、選手達に、部下達に
「本気で変わろう」とコミットさせるのか、そこへ導くのか。

そのノウハウを学ばず、研究せず、実践できない人間は、教育や指導
の現場に立つ資格はない
ですし、そのような人材をそのまま教育・指導
者としてに配置・抜擢してしまう管理側もお辞めになっていただきたい、
と思うのですが、いかがでしょうか。


     ・「罰を与えてはいけない」

     ・「育てる」の本質

     ・「経営のあり方と親子愛」

     ・「いじめ」と「虐待」

     ・自尊感情・自己肯定感


今まで水面下にあった問題が、これからもっと噴出してくるでしょうし、
問題のないことまで問題視されることもあろうかと思いますが、

そうやって様々な議論がたくさんなされて、学校もスポーツも企業も、
この国の「教育のあり方」「指導のあり方」が、格段に素晴らしい文化
になっていくことを願ってやみません。


                         ※別項で追記あり  


  



Posted by exceedblog at 00:59clip!めざすべきもの