January 31, 2014

まず、やってみる。

誰かのことを想うとき。
大切な人の心に寄り添い、その人の幸せを願うとき。

誰かのことを信じるとき。
大切な人の未来を信じて、歓びを後押ししようとするとき。

君の表情は、まなざしは、そこにある純真無垢な心は、
とても慈愛に満ちていて、神々しいほどに美しい。


ここに、ダメな子が1人いる。

やるべきことはわかっているのに、いつもちゃんとやれなくて、
向き合うべきことはわかっているのに、いつも目を背けて、
変えるべきところはわかっているのに、いつまでも変われない。

かと言って、逃げ出す度胸もないし、あきらめたくはないので、
結局は戻ってきて、何とかカタチにして及第点は取るものの、
今日もまた、今までどおりのダメな自分だったと溜息をつく。

果たして彼は、
ずっと “変われない”、ずっと “失敗” を続けてきたのか。
それとも、
ずっと “あきらめない”、ずっと “助走” を続けてきたのだろうか。


どうか、
その母のような優しいまなざしを、彼の未来に向けてください。

信じる心を、
彼が踏みしめて行くこれからの一歩一歩に向けてください。

たとえ明日も明後日も、また同じことが繰り返されたとしても、
そうして少しずつ心を成長させ、少しずつ飛び立つ準備を整えていく
彼のこれからに、そっと寄り添ってほしいのです。


誰にでも優しい君が、唯一ダメ出しをし続けている彼に、

誰にでも温かい君が、唯一冷たく突き放し続けている彼に、

誰でも好きになれる君が、唯一好きにならずにいる彼に、

一番大切な人から大切にされる幸せを、
一番好きな人から好きになってもらえる歓びを、与えてあげてください。


自分自身を絶対に幸せにする。 自分自身に絶対の愛を与える


できるか、できないかじゃなくて、
まずやってみる。 できたら、次の日もやってみる。
できなかったら、その次の日から、またやってみる。


  



  



January 22, 2014

日テレの例のドラマについて

しばし世の中の成り行きを見守ってきましたが、様々な識者が意見や感想を述べたり
議論をしている中で、いつまでたっても納得のいく物言いをしてくれる方が現れない
ため、児童養護施設の子供たちに関わる者として、意見を述べさせていただきます。


そもそも日本のメディアには、良くも悪くも「インパクトがあればOK」(むしろ印象
は悪くてもいい)という考え方があります。
何故なら、「あれ、いいよね?」よりも「あれ、酷くない?」の方が、議論になるため
話題性が高く、宣伝効果としての情報拡散を見込めるからです。

ましてやドラマだから、フィクションとして描くことそのものは許容されるわけです。
故に、視聴率至上主義として、制作側や局側の倫理観が極めて甘くなる。
おそらくは、これだけ賛否が議論され、注目されていることで、実は「してやったり」
とカケラも自らを省みず、乾杯している様子さえ透けてきます。


しかし、多くの人は児童養護施設のことやそこに身を寄せる子供たちのこと自体を
良く知らない、もっと知ってもらう必要があることを考慮すると、この「インパクトが
あればOK」によって、まずは知ってもらう機会や議論する機会となったのだから、
施設の実態とかけ離れているという意見もあるものの、百歩譲ってそこは目を瞑ろう。

でも、施設の子供たちが偏見の目に晒されたり、いじめが起きるなどして、今よりも
生き辛くなったり、あるいは視聴することでフラッシュバックが起きたり、自殺者が
出た場合(既にいくつかの事態が報告されているようですが)、どうするのか、という
問題についての局側の説明は、説得力がないように思えます。


。。。と、ここまでの議論が延々となされているのですが、そこに物申したい。


語弊があるかもしれませんが、
偏見の目で見られる子供や施設関係者は、まだマシかもしれないとさえ思うのです。

誤解や偏見の目で見られる、ということは、
事実はそうではなく、適切な施設で守られ育てられている、ということを意味します。

でも実際に、施設内での職員による暴行や性的虐待・脅迫が、氷山の一角として多数
発覚している以上、それが偏見ではなく、実際にこのフィクションのドラマに近い
恐怖をリアルで受けている子供たちが実在するのだという事実があります。

そして、全国の児童養護施設には3万人を超える子供たちが身を寄せているものの、
親から日々虐待を受けていて、まだ保護されていない被虐待児童は10万人以上いると
言われていること。

彼らはその理不尽な暴力に耐えるために、「親は自分を愛している。自分がいい子に
なれば殴られないんだ」と、必死で自分自身に言い聞かせていたり、「自分が逃げたら
ママが殴られる」から、大事なママを守りたくて自分が虐待に耐えていたり、あるいは
どんなに虐待されても自分にとっては親だから、という思考で、告発できなかったり、
その術や発想自体を持てなかったり。
中には、児童相談所や児童養護施設の連絡先を大事に持って、それを自分の最後の砦
として、支えとして、ギリギリの精神状態で耐え続けている子供もいるのです。

もし彼らがこのドラマを見て、最後の支え・最後の砦がこういうものなんだと思えた時、
今の地獄から抜け出すために親を告発してでも脱出したとして、その先には別の地獄が
待っているのだと思えたなら、そこにあるのは「絶望」だけなのではないだろうか。


このドラマが、たとえ後からどんな展開になっても、どんなフォローが入るのだとしても、
そこでどんな「愛」のカタチが示されるのだとしても、

彼らにとっては、この第1話だけで、充分に「絶望」を与えるチカラがあるのではないか。


本当の弱者、
本当の地獄に生きる子供たち、
本当に配慮しなければならない、この議論の対象とすべき存在とは、

「誤解や偏見の目で見られる子供や施設関係者」以上に、
今なお地獄の苦しみの中を生きているたくさんの被虐待児童たちではないだろうか。

社会がその存在に寄り添い、救わなくてはならない命と尊厳。
その主たる被虐待児童たちではないだろうか。

彼らの「今」と「これから」を思う時、
賛否や議論の余地なく、「あってはならないもの」以外の何物でもないと思うのです。


局側の言い訳について。

それを本気で言うのなら、「おしん」のように、幸せな現在の主人公が回想する、という
手法を取れなかったか。たったそれだけで、全ての意味を逆転させられたのではないか。
そんなことにさえ気づけないのは、このドラマの目的がそこには無かったからではないのか。

施設関係者からの苦情について。

その立場にいるあなた方だからこそ、一所懸命に守っているという自負があるならばこそ、
今なお地獄を生きている子がたくさんいることを知っているはずのあなた方だからこそ、
本当に危惧すべき影響を示唆してくれないと、現時点では、あるべき議論と異なっている。

マスメディアの取り上げ方について。

この問題の本質を見てほしい。
取り上げるあなた方が、今なお誰にも守られていない子供たちの存在を無い者とするかの
ような取り上げ方をしていることは、局側と同じ罪を犯しているとしか言いようがない。  


  



Posted by exceedblog at 00:55clip!めざすべきもの 
January 18, 2014

自分を好きになる、大切にする

結局、いつも最後はそこに行きついてしまう。


   自分を好きになる。

   自分自身を大切にする。


言われなくても、できることなら本当はそうなりたいし、そうしたい。
自分自身のことを好きになってあげたい。 受け入れて認めてあげたい。

でも、それができない。
自分のことを好きになれない。

人には優しくできるのに、人のことは大切にできるのに、好きになるのに、
自分自身のことだけは、どうしても好きになれない、大切にできない。


そんな人は、無理して自分を好きになろうとしなくていいと思う。
そんな拷問から、自分を解放してあげてもいいと思う。


だって、もしも誰かが無理してあなたを好きになってくれようとしても、
必死に頑張ってあなたを大切に思おうとしてくれたとしても、それでは
あなた自身はちっとも嬉しくないはずだから。

そもそも、誰かを好きになるのは、気がついたら好きになっているものだし、
誰かを大切に思うのは、自分がそうしたくて勝手に大切に思うのであって、
決して、頑張ってすることではないはずだから。


だからもう、無理して自分を好きになろうとしなくていいと思う。
本当は好きになりたかったんだ、って認められたら、それで充分だと思う。

自分を好きになれない自分自身を、許してあげていいんだよ。



でもね、

もしも、あなたにとって大切な、かけがえのない存在の誰かがいるのなら。
その大切な人の瞳に映るあなたという存在を、粗末に扱ってはいけない。

もしも、あなたが大切なものを誰かに届ける使命を果たすつもりがあるのなら。
待っている人の前に現れるあなたという存在を、粗末に扱ってはいけない。

たとえあなた自身が、自分の価値を認めることができなかったとしても。



想像してほしい。

もしも、あなたが大切に思う人や、あなたの子供が、自分を好きになれなくて、
自分のことをダメな人間だと思っていて、自分には価値がないと思っていて、
自分には幸せになる資格がないんだと、心に真っ暗な闇を抱えていたとしたら。

。。。あなたは、自分の身を引き裂かれるより痛くて辛いよね。

もしも、かつてあなたに大切なものを手渡してくれた人が、自分自身のことを
とても粗末に扱いながら、あなたのためにそれをしてくれようとしていたら。
それでもあなたは、果たしてそこでそれを受け取ることができただろうか。

。。。きっと、私のことはいいから自分自身を大切にして、って言ったよね。



あなたの子供が大切にしているものを、今一度よく見て。
そこには、ゴミクズにしか見えないものがいくつもあるでしょう?

あなたの大切な人が、楽しそうに語る思い出話を今一度よく聞いて。
そこには、取るに足らないくだらないことがいくつも出てくるでしょう?


あなたにとっては価値がないように思えるそれも、彼らにとっては
かけがえのない宝物で、大切なもので、愛しい存在に他ならない。

あなたが大切に思う人にとって、
あなたを待っている人にとって、あなたという存在も、それなんだよ。

たとえあなたにはどう見えても、彼らにとっては価値があるんだよ。



人は誰でも、生きているんじゃなくて、生かされている
あなたも誰かや何かによって、ずっとこれまで生かされてきたでしょう?

あなたが大切に思う人も、
あなたを待っている人も、やっぱり誰かや何かに生かされているんだよ。

彼らにとっては、あなたという存在は、その一部なんだよ。


だからね、

あなたは、彼らにとって大切な「あなたという存在」を、預かっているんだ。
あなたが大切に思っている人たちから、あなたを待っている人たちから、
「あなたという存在」を、預かっているんだ。

あなたは、あなたのものじゃない。
あなたは、彼らの大切なものなんだ。
あなた自身は、その大切なものを預かっている人に過ぎないんだ。



鏡に映った自分を見て、あなたの目にはどう見えたとしても。

大切な人の大切なものを、
大切な人の大切なことを、
待っている人の待ち望んでいるものを、

大切に、心を込めて、愛しんで、磨き上げて、

あなたという存在を、

ちゃんと預かってあげようよ。
ちゃんと届けてあげようよ。
ちゃんと育ててあげようよ。
ちゃんと大切にしてあげようよ。


たとえ他に何ができなくても、他に立派なことが何一つできなかったとしても、
その一番大切なことができたなら、
あなたの大切な人は、あなたを待っている人は、きっと歓びと幸せを感じられる。

それこそが、あなた自身にとっての、一番大切な歓びと幸せのカタチだよね。



だから、

ちょっと冴えない容姿をしていても、
ダメなところや許せないところがいっぱいあっても、
取るに足らない、価値のないように見えるあなたかもしれないけれど、

あなたという存在を、

好きになっていいんだよ。
大切に思っていいんだよ。
許してあげていいんだよ。
幸せになっていいんだよ。


鏡に映った自分に、「大好きだよ」って声をかけて、栄養を与えてあげよう。
大切な人の大切なものとして、自分自身を愛しんで、大切に預かってあげよう。

毎日、あなたの大切な人の代わりに、あなたを待っている人の代わりに、
「生まれてきてくれてありがとう」って、一番素敵な笑顔で微笑んであげよう。


あなたには、間違いなく価値がある。

あなたという存在は、誰かにとって、かけがえのない、大切な存在なのだから。