December 29, 2017

1969年

物心ついた時、時代は米ソ冷戦の真っ只中で、前年にはケネディ大統領暗殺
があり、国内では年始から東大安田講堂事件が起きて、学生運動がいよいよ
ピークへ向かおうとする頃、アポロ11号による人類初の月面着陸成功で世界
が沸く一方、ベトナム戦争が泥沼化して、世界中で反戦デモが起きていた。

そんな1969年の8月、3日間で40万人を動員して、カウンター・カルチャーの
象徴となる、ロックの祭典「ウッドストック・フェスティバル」がNYで開催
され、そうしてついに、米軍はベトナムから撤退を開始した。

後に、Hotel California(Eagles)の歌詞に登場してくる
「We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine」の、1969年。




激動の時代の象徴である1969年。

当時3歳の僕の記憶は、
保育園で発熱して、その日のおやつのビスケットが食べられなかったことや、
生まれて初めてメロンパンを買ってもらい、それはそれは美味しかったこと、
新しい長靴がとても気に入って、晴れの日も保育園に履いて行ったことなど、
何とも平和なものばかりだ。


幼い時の記憶は、知らないこと・わからないことだらけの中で、視野も狭く、
とても小さな世界を生きている自分が、まだ未熟なその目に映った出来事を、
未熟な者なりの解釈で認識した、極めて部分的で浅はかなものに過ぎない。

そして、それは程度の違いが大いにあるものの、学生時代の記憶や、成人後
や結婚後、出産後、あるいはほんの数か月前の記憶についても、同様だ。


たとえば、親から理不尽な育てられ方をしたことや、学校でクラスメイトから
理不尽な仕打ちをされた辛い経験について、全て水に流してあげてくださいね
とは、全く思わないけれど、
それから成長して、たくさんのことを知って、たくさんの人に出会ったことで、
ずっと大人になった今の自分があらためて俯瞰したら、その頃の自分が感じて
いたものとは少し違った側面が見えてくると思う。


子供の目線では、決して逆らえない完全な存在のように映っていた自分の親も、
当時はまだ親として初心者で、未熟な子育てしかできず、本当は子供と上手く
やりたいのに、そうできない自分自身に一番イラついていたのかもしれない。

いじめをしてきたクラスメイトも、本当は家で親から虐待されていて、そんな
自分がみじめで、無意味で、消えてしまいそうで、その恐れがバレないように、
必死に強がって隠していただけの、とても弱い存在だったのかもしれない。


勿論、そうして今の自分が俯瞰することで、なるほどと気づき、今後の人生に
活かせる学びを得て、プラスになったと全てを許し、ありがとうと言えたなら
パーフェクトなのかもしれないが、
そこまででなくても、
「思い出したくもない記憶」や「トラウマ」について、今よりも未熟な過去の
自分が受けとめたままに留めておくより、成長した今の自分が、あらためて
検証し直してみることで、わずかでも真実に近づけたなら、
明日からほんの少しでも、生きづらさが減っていくのではないだろうか。  



  



Posted by exceedblog at 02:23clip!
October 27, 2017

心が変われば人生が変わる

心が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる
運命が変われば人生が変わる


この言葉は、松井秀樹さんが恩師から贈られた言葉として、あるいは
野村克也氏やウイリアム・ジェイムズ氏の言葉として、それぞれ若干
語句が異なるものの、よく知られている名言です。

あれもこれも「他人が源」(誰かや何かのせいで自分はこうなった)
という解釈や、そう感じてしまう心のあり方を捨て、何事もすべては
自分が源」(自分次第で如何様にも変えることができる・できたはず
と受けとめられる自分に変わることや、あらゆる物事に素直に感謝する
心のあり方を手に入れることで、人生そのものが変わっていきます。


ただし、人間はもともと、自分で一旦決めた行動を、その後もずっと
やり続けようとする性質(心理学では「一貫性の法則」と言います)を
持っているため、それまでに作り上げてしまった自分や、過去に決めて
しまった心のフレームが邪魔をして、変わりたいと思ってはいるものの、
なかなか本質的に自分を変えることができません。

本当に自分を変えるためには、
目線を変えて意識を変えて、本気でコミットする必要があります。



小学3年生の時。

自分の未来が見えなくて、
居場所がみつからなくて、
そんな自分を変えたくて、
でも、変われる自信がなくて、
4年生になった時、やっとの思いで吐き出した「変われるかな?」という
悲壮な問いかけを、命がけで承認してもらえたから、今がある。

あの時、後押しされた背中には、今でも手のひらの感触が残っていて、
どんなにくじけそうになっても、
どんなに格好悪いことになっても、
あの手のひらの感触を背中で感じて、あきらめずに、そのように生きてきた。


自分を変えるのは簡単じゃない。
でも、
自分と未来は変えられる。

誰かや何かのせいにする暇があるなら、
大切な誰かや愛する人のために、今の自分に何ができるか、
を考える自分であり続けたい。


心が変われば、人生が変わる。


  


  



Posted by exceedblog at 17:03clip!
March 20, 2017

愚直に生きる

小学6年生の息子は、友達と遊んで来たり、少年野球の練習帰りに
ときどき、お菓子のゴミを大量に持ち帰ってくる。

理由を聞くと、
近頃、お菓子を先に食べ終わった子が後の子にゴミを押し付けて
輪を抜け、最後の子が全部持ち帰らされる...というのが流行って
いるらしいのだが、息子は、自分も後の子に押し付けるという
ことをしたくないので、そうなる度に、後の子の分も合わせて
全部のゴミを引き受けて、持ち帰ってきてしまうのだそうだ。

「こんなに持ち帰ってごめん」と謝った後、息子が尋ねてきた。

       「でも、これでいいんだよね?」



上手いことやった奴が得をして、真面目な奴が全部1人で背負込んで
損をすることが多い、今の時代。
世渡りの上手さとか、口の上手さとか、機転の良さがモノを言う。

あるいは、見て見ぬフリをしたり、誰かが苦しんでいても近づかない
ようにする判断も、子供の頃から繰り返される。
お家のお手伝い、っていう言葉にも、そういうモノが見え隠れする。


そんな大人になりたかったんだっけ?
もっと真っすぐに生きたかったんじゃなかったっけ?
もっと大切なモノがあったんじゃなかったっけ?

本来は、バカ正直で臨機応変さに欠けることを指す言葉ではあるけれど、
こんな時代だからこそ、
愚直で、いいんじゃないだろうか。


不器用で、いいんじゃないだろうか。
バカ正直で、いいんじゃないだろうか。
世間知らずの世渡り下手、口下手で、いいんじゃないだろうか。

ちょっとくらい損をしたって、
いつも他人より遠回りをしたって、
なかなか誰にも認めてもらえなくたって、

時には悲しい想いをすることがあったって、
悔しい想いをすることがあったって、
涙を流すことがあったって、

真っすぐに、
自分を飾ることなく、偽ることなく、
誰かを欺くことなく、裏切ることなく、

自分らしく、

愚直であって、いいんじゃないだろうか。


頭で考えて出す結論よりも、
感情に流されて出す結論よりも、

心で感じて
「本当はそうありたい」と想える自分に身を委ねて、

いつでも

真っすぐに。



。。。息子からの問いかけには、
「勿論さ。君のそういうところが、私の誇りなんだよ!」と答えた。  


  



Posted by exceedblog at 02:40clip!
February 28, 2016

再会の約束

もっと強い自分になりたい。
 
もっと優しい自分になりたい。

役に立てる自分になりたい。

誇れる自分になりたい。

自分らしい自分になりたい。


何度もそう思って、そうあろうとするけれど、届かない、近づけない。
そして自分の期待に応えられない自分に失望しては、涙する。

だけど、
本当になりたいのは、そんな立派な自分なんかじゃなくて、
「逃げない自分」じゃないのか。


自分の道を、自分で決める。
何が大事なのか、誰が大事なのかを決める。


世界中のすべてを探し回ってでも、
その身を何度八つ裂きにされようとも、
何度生まれ変わってでも、

もう一度、その魂に出会いたいから、
今度こそ、その自分を生ききりたいから、
結局、その道にしか生きられないから、今、この自分を生きている。


だから

逃げずに、
自分の生き方とあり方を、今ここで決める。



  


  



Posted by exceedblog at 08:35clip!
October 29, 2015

タマゴが先かニワトリが先か

ある人は、何もかも思い通りにいかない、と言う。
ある人は、何もかもが思い通りになっている、と言う。

ある人は、苦しいことばかりで生きているのが辛い、と言う。
ある人は、毎日が愛と光に包まれているようだ、と言う。

ある人は、自分はいつも孤独で誰からも必要とされていない、と言う。
ある人は、いつも心が平穏で、安心して、人生を楽しんでいる、と言う。


それは生まれながらに背負った罰ゲームなの?
生まれながらに、幸せになれる人となれない人が決まっているの?


。。。自分は幸せにはなれないのだろうか?
。。。自分は幸せになってはいけないのだろうか?
。。。自分はこのままずっと孤独なんだろうか?

知りたいけど、知りたくない答え。
開けたいけど、開くのが怖い扉。


上手くいかないスパイラルにいる時は、ついそう考えがちだけれど、それは

             「タマゴが先かニワトリが先か」

の議論で、「タマゴが先」を主張する思考に過ぎません。

そうであってほしくない、と思いたくて、精一杯の努力をして、抵抗してきたけれど、
やっぱり生まれながらに違うんだ、と思い知らされることの繰り返し。



でも、
そういう風に生きてきたから生きづらくて、
そういう風に自分で自分を縛り付けてきたから苦しくて。。。

だったら、いっそのこと、根本から逆にしてみたらどうだろう。
少なくとも、僕がこれまでに出会った、僕に光を与えてくれた人たちは、
全員が異口同音にこう断言しました。

             「ニワトリが先に決まってる!!」

「どこまで行けば幸せになれるのか、どこへ行けば幸せになれるのか、じゃなくて、
そもそも、自分が自分らしく満喫できる歓びと幸せに向かって生きているのに、
何かをしなければ、どこかへ行かなければ幸せになれない、って思ってしまった。
そこから違ってしまったんだよ!
タマゴが先って思いたくない>を<ニワトリが先に決まってる>に替えろ!」



目の前に広がる外側の世界は、自分の内側に広がる世界のパラドックス。
外側の世界は全てが色鮮やかではあるが、それは何もかも実体ではない。

失敗を恐れていれば、目の前のそれは、困難を極めたものとして顕れる。
絶対に手に入れたいと思えば、何かを犠牲にすべきものとして顕れる。

いつでも実体は内側にあり、そこにある本質が外側に投影されているに過ぎない。

何かをつかむためには、自分の内側の奥底にある何かをつかむこと。
何かを突破するためには、自分の内側の奥底にある壁を突破すること。
それが成されれば、必然的に、それをつかみ、それを突破し、そこに到達できる。


自分の半生、自分の今を、
【自分は本当の歓びと幸せに向かっていて、常に、本物の愛と祝福に包まれている】
と仮定してみる。

楽しいことも、辛いことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、
本当の喜びと幸せとは何なのかを知り、そこに辿り着くために必要な経験であった。
誰よりも多くの気づきと学びを与えてくれた、本物の愛と祝福が常にそこにあった。
と、とらえてみる。

これまでの全てがそうであったなら、これからの全てもそうであるに違いない。
これからも、歓びと幸せに向かって、愛と祝福に包まれて生きる人生が待っている
と、想定してみる。


そう考えると、

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、もしそれが「必要なもの」なら、
愛と祝福において、必然的に手に入る。

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、それが手に入らないことが必要なら、
愛と祝福において、必然的に手に入らず、もっと大切な気づきや学びを得る。

だから何も恐れず、何もあきらめず、その人生を信頼して、
目の前の課題の1つ1つに全力を尽くし、その度に内面の進化成長を遂げ続けていく。


自分はどこから来て、どこへ行くのか。

想いの源泉から溢れた水は、たくさんの感謝によって水嵩を増し、愛と祝福によって
その流れを導かれ、ずっとずっと流れていく先に、いつか歓びと幸せの大海へと流れつく。
その人生を信頼して、自分の意志で、身を委ねる。


今日はどんな気づきを得られるのだろうか。
今日はどんな風に階段を1歩踏みしめていけるのだろうか。
今日はどんな愛と祝福が、どんなカタチで顕れるのだろうか。

それを毎日、自分らしく楽しんで生きる。
起こるすべてのことに感謝して、出会うすべての人に感謝して、今日を生きる。

すると、あなたの望みは、最適な順番で具現化していく



想いの源泉、その泉に浮かぶ小舟に寝そべるように、
愛と祝福に満ちた宇宙の中で、ハンモックに揺られるように、
生まれてくる前に、お母さんの子宮の中にいた時の、生まれながらのあなたのままで、

安心して、自分らしく、信頼して、身を委ねて生きる


  


  



Posted by exceedblog at 03:42clip!
July 16, 2015

夢中で生きる

子供たちの寝顔を見つめる。
大切な人の寝顔を見つめる。

子供だって、子供なりにたくさん背負って生きていて、たくさん頑張って生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

大人は大人で、たくさん背負って、気を張って、頑張って、身にまとって生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

ずっと守っていくと決めたもの。
何よりも大切にすると決めたもの。
生涯愛し続けると誓ったもの。
絶対に幸せにすると誓ったもの。


昨晩は、その愛しいものに、そっと、どんな誓いの言葉を残しましたか?
今日は、その愛しいものに、どんな愛を与えましたか?

それを決めた日の自分に、それを誓った日の自分に、今の自分を見せられますか?


愛する我が子の寝顔を見つめてみてください。
大切な人の寝顔を見つめてみてください。


いつまでも色褪せない自分の想い。
ますます深まり続けていく自分の愛。

いつでもそれを感じ続けて、「夢中」になれたなら、
時間も、疲れも、不安も、怖れも感じない、
楽しくて楽しくてたまらない、歓びと幸せと感謝に包まれた日々を生きていける。


あなたは今、どんな愛の中を「夢中」で生きていますか?


  


  



Posted by exceedblog at 11:01clip!
March 31, 2015

その一瞬を振りきれ!

自分の弱さを感じた瞬間。

自分をダメな奴だと感じた瞬間。

自分を役立たずだと感じた瞬間。

.....そう感じた時、その一瞬を全力で振りきる!


達成・到達する人と、しない人、成功する人と、しない人。
いつだって、どちらにも同じコトが起きている。
どちらも一瞬、
不安や恐れが頭をよぎり、負のスパイラルに飲み込まれそうになる。

でもその直後に、全く異なる行動を起こす。

存在否定(自己否定)や罪悪感に苛まれ、どんどん堕ちていくのか。
それとも、
不安や怖れが自分を飲み込む前に、その一瞬の負を全力で振りきるのか。


  弱いんだったら、今日こそ強くなる。

  足りないんだったら、今こそ成長する。

  役に立たないんだったら、今度こそ貢献する。


タイムラグ0で、そう決めて、その一瞬の負を全力で振りきる!

タイムラグ0で、自分を進化成長させて、その一瞬を振りきる!


すべての困難は「進化成長の種」であり、
「進化成長」を阻む最大要因は「罪悪感」「存在否定」だ。


家庭の中で、親子関係で、夫婦・恋人間で、ビジネスで、あらゆる場面で、

壁にぶつかった時、難題にぶち当たった時、不安に苛まれた時、
プレッシャーがかかった時、結果を求める時、選択を迫られた時...


不安や怖れが自分を飲み込む前に、その一瞬の負を全力ではねのける。
今この瞬間、強くなると決める!

何度よぎっても、何度グラついても、何度引き戻されそうになってもいい。
その度に、その一瞬を全力で振りきる!

ただまっすぐ前だけを見て、そのまま進む。

何度転んでも、何度倒れても、何度へこたれそうになってもいい。
その度に、また立ち上がって、信じて進む。


いつだってそれは、ほんの一瞬で決まる。

だから、その一瞬に全てをかけて、駆け抜ける。 その一瞬を振りきる!  


  



Posted by exceedblog at 23:37clip!
February 14, 2015

Salyu [ to U ]

純粋であろうとすればするほど、

真直ぐに進もうとすればするほど、

自分らしく生きようとすればするほど、

時に苦しかったり、悔しかったり、切なかったり、傷ついたりする。


それでも顔を上げて、明日もまた、微笑んで生きよう

もう1日。あと1日。


今日が私にとって、大切な大切なあなたと向き合って生きられる最期の日なんだと思って。

今日が私にとって、愛しい愛しいあなたに寄り添って生きられる最期の日なんだと思って。


どんなに傷ついても、

あなたの想いは、そんなものでは砕けない。色褪せない。


だから、大丈夫。


明日もまた、微笑んで生きよう。

何も怖れずに、大切な人を、愛する人を、自分自身を、全力でHUGしてあげよう。


  


  



Posted by exceedblog at 05:03clip!
January 28, 2015

どうしたら幸せになれるのか

小学5年生になる娘は、小学1年生の時に気管支喘息で入院して、以降
学校も休みがちで、体育の授業も半分は見学、そして薬漬けの毎日になった。

娘も出演が決まっていたミュージカルの稽古を心の支えに頑張っていたが、
医者からは、健康を取り戻すのには10年かかる、と言われた。

2年生に進級する時に空気の良い地域に引越して、薬を捨てて、スポーツを
始めて、今では毎年ほぼ皆勤賞で、すっかり健康優良児になった。


それでもやっぱり運動は苦手で、運動会のかけっこは毎年ビリ争いしていて、
水泳の授業では2歳下の弟と同じ級、野球チームでは弟がレギュラーなのに
自分は補欠、先日参加したマラソン大会ではビリから3人目...という状態だが、

本人は、運動会も、水泳も、野球も、大好きで楽しんでいる。

勿論、友達に笑われることもあるし、バカにされることもあるし、凹むこともある。
でも反対に、出発点がとても低いので、上達の度合いがわかりやすくて、
努力した分だけ自分で手ごたえを感じられるし、周囲もその努力や上達を
認めてくれるので、やりがいがあるようだ。

そして何より、いつも見学しているだけだった運動を、みんなと一緒にやれる
こと、自分なりにチャレンジできることに、とても喜びを感じられるらしい。

将来はパティシエールになって、みんなが幸せな気持ちになれるお菓子を、毎日
作れる健康な自分になるために、楽しんで運動にチャレンジしているのだそうだ。


上手じゃなくても、他人より劣っていても、失敗しても、笑われても、凹んでも、
それは決して最悪なんかじゃない。
本当の最悪っていうのは、そのチャレンジさえも「できない」ことなんだと思う。

「やりたいこと」「好きなこと」「なりたいもの」のためにチャレンジできる今日がある
ことに、心から感謝して、どれだけ喜べるか・楽しめるか・夢中になれるか。

そんな我が子を誇りに思うし、いつも幸せを感じさせてもらっている。
つくづく、子育ては親を育ててくれるものだと思う。





誰でもみんな、「弱さ」と「怖れ」を抱えて生きている。

それを悟られないように。
それに負けないように。
それを乗り越えようとして。

でも、責められたり、わかってもらえなかったり、ないがしろにされたりすると、
心をえぐられるような気がして、もう堪えられなくなって、ずっと心の奥深くに
押し込み続けてきたモノが一気に噴出してしまう。


  どうせ自分は見た目も悪いし、頭も良くないし、とりえもないし、腹黒いから、
  本当の自分を見せたら、誰も必要としてくれなくなってしまう!

  だから、いつもみんなに必要としてもらえるように、喜んでもらえるように、
  嫌われないように、ずっと自分を演じて頑張ってきたのに!

  なのに、みんな都合のいい時だけ友達面したり、優しい言葉をかけてくる
  けど、実は影では笑っていて、結局いつか離れて行ってしまう!

  やっぱり自分は誰にも必要とされていない!
  誰にも信じてもらえない、わかってもらえない、誰も信じられない。。。!!


それでも、
本当はそんな自分を変えたくて、
本当は誰かのせいにしたくなくて、
本当は人を信じたくて、誰かとわかりあいたくて、

自分自身を信じてあげたくて、
自分自身を認めてあげたくて、
自分自身を幸せにしてあげたくて。。。また考え込む。


  どうしたら自分らしく生きられるんだろうか。
  どうしたら自分のことを好きになれるんだろうか。

  どうしたら感謝を感じて生きていけるんだろうか。

  どうしたら幸せになれるんだろうか。
  どんな風に生きれば私も幸せになれるんだろうか。


自分を信じてあげたいんだよね?
自分を認めてあげたいんだよね?
自分を幸せにしてあげたいんだよね?

だけど、「できない」んだよね?


でも、本当に「できない」んだろうか?

本当は、「できる」か「できない」かの問題じゃなくて、
「やりたい」か「やりたくない」かの問題なのかもしれない。


もし、本当は「やりたい」んだったら、
「やりたいこと」「好きなこと」「大切なこと」「なりたいもの」なんだったら、

たとえ上手にできなくたって、
たとえ他人より下手だって、
今はとても困難な環境にいたって、
何度も失敗したって、何度も休んでしまったって、

今日という日があることに、明日という日が来ることに、心から感謝して
楽しんでチャレンジしていいんだよね?


自分を信じていいんだよ。
自分を認めてあげていいんだよ
自分を好きになっていいんだよ

今世あなたが参加しているマラソン大会は、たとえ人より遅くたって、
コースを間違えてしまったって、あるいは何年もかかってしまったって、
いつかちゃんとゴールできたら、誰もが金メダルをもらえるレースなんだ。


あなたは、幸せになっていいんだよ

あなたという存在が、誰かを幸せにしているんだよ。


  


  



Posted by exceedblog at 08:02clip!
December 25, 2014

ターニングポイント

中学3年生の時、毎年、国立競技場に区内の全中学生が集まって行なわれ
ていた陸上記録会に、800m走の学校代表選手として出場した。

本番ではそれなりに入賞の自信もあったので、入念にウオーミングアップを
済ませて、フィールド脇の集合場所で待機し、いよいよスタートライン前へ
移動するよう指示が出た時、

いきなり、補欠選手が僕の両脚を全力で蹴り始めた。


他校の選手も見ている中で、彼は何発も何発も僕のふくらはぎや足首に蹴り
を入れ、そして叫んだ。 補欠としての自分の屈辱を。

補欠としての屈辱、最後まで選手に帯同してスタートラインには立てない屈辱。
そういったものを全て爆発させて、彼は僕の脚を蹴り続けた。


大声をあげて大人を呼ぶか、やられたらやり返すか、レースを棄権するか、
一瞬で思いをめぐらせて出した結論は、何事もなかったことにする、だった。
スタートラインでピストルを持っているのは部活の顧問として大変お世話に
なった先生であり、恥をかかせるわけにはいかなかったからだ。

彼の目をじっと見て、何もなかったものとしてその場を後にしたのだが、
スタートラインに立った時、すでに僕の両ふくらはぎは引きつって痙攣し、
右足首は捻挫して、歩くだけでおかしな音をたてていた。

そして当然、それなりの自信があったはずのレースでは、1週ももたずに
失速し、区内の全中学生が見ている前で屈辱の最下位でゴール。
それまで積み重ねた努力も練習も、すべてが木っ端微塵になったわけだ。

そればかりでなく、この時に傷めた両膝の十字靭帯と足首の靭帯の怪我
にはその後も悩まされ、高校3年生の一番大事な時にメスを入れなければ
ならなくなった。


この事件については、ついに卒業するまで誰にも話すことはなかったのだが、
それは、この事件を最下位の言い訳にしたくないから、ということ以上に、
レース後にフィールドでぼんやりと考えたことによる。



この理不尽な出来事が、もしも、僕の人生においてプラスの意味を持つ日が
来るとしたら、それは果たしてどんなカタチで起こるのだろうか。

この出来事は、彼が僕に何をしたかじゃなくて、世の中で起きているどんな
出来事と同じで、誰が誰にしていることと同じ本質を持つものなのか。

そして僕は今日、一体何を垣間見て、何を知り、それは僕が請け負っている
人生のミッションと、どうリンケージしているのか。


。。。フィールドの端に座って、僕はずっとそれを考えていた。

それを今ここで見つけておかないと、

たとえ怪我させられたことを最下位の言い訳にしたとしても、
たとえ補欠の彼を犯人として吊るし上げたとしても、
たとえ自分に正論を言い聞かせ、耐えてこの場では飲み込んだとしても、

目先の問題や感情は解消されるかもしれないが、この理不尽な暴力、暴言、
屈辱、尊厳の崩壊、孤独感、やりきれなさ、は、一生僕につきまとい続け、
整理できない記憶が、一生僕を縛って奴隷にするんじゃないのか。



4年生の時に、「自分と同じような、自分の存在意義を肯定できない子供たちの
心に灯りをともし、救い、勇気づけるようなメッセージを発信することで、彼らの
人生に影響を与えるような生き方をしていきたい。」と誓いを立てていた僕が
感じとったのは、

もしかして、この理不尽な暴力、暴言、屈辱、尊厳の崩壊、孤独感、やりきれなさ
を抱えてその奴隷になって生きているのは、「子供たち」に最も影響を与える存在
である「お母さん」たちの姿なんじゃないのか。

誰かが全力でそこに踏み込んでいかなければ、世の中の実態は変わらない
んじゃないのか。 それをやりきることが、「言っていること」と「やっていること」、
「生き方」と「あり方」を一致させることなんじゃないのか。

たぶん、当時はそんな立派な言語ではなかったのだろうけれど、そういう風に
解釈したし、それが、本当の意味での今の原動力になっているように思う。



僕は、【すべての物事には意味がある】とは、あまり思わない。

要約してしまうとそういうことになるのかもしれないが、

そもそも、すべての物事は、そういう風に見えた、思えた、感じられた、認識した、
という自分の勝手な解釈の問題であり、大局的に見た時、そこにある真実は、
自分はそう解釈した、しかし誰々はこう解釈したようだ」という、状態に過ぎない。

すべての物事を、どう解釈し、その後の人生にどう活かすか

そこに意味が生まれ、そこからの行動に意義が生まれる、のだと思う。


自分自身の存在意義も、事業の存在意義も、同様のところにあるものだと思う。  


  



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