February 28, 2016

再会の約束

もっと強い自分になりたい。
 
もっと優しい自分になりたい。

役に立てる自分になりたい。

誇れる自分になりたい。

自分らしい自分になりたい。


何度もそう思って、そうあろうとするけれど、届かない、近づけない。
そして自分の期待に応えられない自分に失望しては、涙する。

だけど、
本当になりたいのは、そんな立派な自分なんかじゃなくて、
「逃げない自分」じゃないのか。


自分の道を、自分で決める。
何が大事なのか、誰が大事なのかを決める。


世界中のすべてを探し回ってでも、
その身を何度八つ裂きにされようとも、
何度生まれ変わってでも、

もう一度、その魂に出会いたいから、
今度こそ、その自分を生ききりたいから、
結局、その道にしか生きられないから、今、この自分を生きている。


だから

逃げずに、
自分の生き方とあり方を、今ここで決める。



  



  



Posted by exceedblog at 08:35clip!
October 20, 2015

お母さんの手当て

小さい子供が、お腹が痛くなったり具合が悪くなった時、お母さんが
そっとお腹や背中をさすって手当てをしてあげると、不思議と症状が
緩和して元気を取り戻したりする。

大きくなって、それと同じことを自分で自分にやってみるのだけど、
何かが違うようで、あの不思議な魔法は生じない。

あれって、何なのだろうか。
物理的には、同じはずなのに。

気持ちの問題、気のせいなのか。
それとも目に見えない何かがあるのか。


別に、ここで波動とかエネルギーとかを議論する気はないのだけど、
あの感じって、とても大切なものなんだと思う。

誰かがシンドイ状況の時、医者に連れていくとか、薬を与えるとか、
あるいは代替え治療の何かをするとか、布団と水枕を用意するとか、
物理的に実行すべき選択肢はいろいろあるのだろうが、

まず最初にやるべきは(一番大切にするべきは)、
あの不思議な魔法・お母さんの手当てなんじゃないかな、って思う。

本当に効果があるのか無いのか、そんなものはわからないけれど、
シンドイ人の傍らに寄り添い、
胸に、お腹に、背中に、頬に手を当て、そっと体を寄せ、手を握り、
想いを込めて、願いをかけて、愛しむ。


自分自身のためには発動できない魔法が、大切な人のためなら出る。
何か不思議なものが溢れ出てしまう。

それは気のせいかもしれない。
ごくごく微量な何かでしかないのかもしれない。

でも、どんなにシンドイ時でも、それがあれば、生き返れる。
どんな闇の淵からでも、それがあれば、帰って来れる。


今の世の中って、本当に生きづらい。
みんなシンドイ。

いつも明るく、元気にふるまっているあの人も。
今日も笑顔で優しく微笑んでくれたあの人も。
今、目の前にいる、かけがえのない大切な人も。


すごいことや立派なことなんて何一つできなくたって構わないから、
本当は誰にでもできるはずの、
何も持ち合わせていなくても、何の資格も経験もなくてできるはずの

想いを込めたその魔法を、

もっともっと、今日も、明日も、毎日、惜しみなく使ってしまうあなた
になったら、ちょっと素敵だと思いませんか。





自身のビジネスのコアに何を置くか。
それは時にサービスであったり、サポートであったり、ケアであったり、
全てのコトにおいて、それがカタチに顕れる。

子育てとビジネスの本質は同じところにある。  


  



Posted by exceedblog at 05:04clip!
July 16, 2015

夢中で生きる

子供たちの寝顔を見つめる。
大切な人の寝顔を見つめる。

子供だって、子供なりにたくさん背負って生きていて、たくさん頑張って生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

大人は大人で、たくさん背負って、気を張って、頑張って、身にまとって生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

ずっと守っていくと決めたもの。
何よりも大切にすると決めたもの。
生涯愛し続けると誓ったもの。
絶対に幸せにすると誓ったもの。


昨晩は、その愛しいものに、そっと、どんな誓いの言葉を残しましたか?
今日は、その愛しいものに、どんな愛を与えましたか?

それを決めた日の自分に、それを誓った日の自分に、今の自分を見せられますか?


愛する我が子の寝顔を見つめてみてください。
大切な人の寝顔を見つめてみてください。


いつまでも色褪せない自分の想い。
ますます深まり続けていく自分の愛。

いつでもそれを感じ続けて、「夢中」になれたなら、
時間も、疲れも、不安も、怖れも感じない、
楽しくて楽しくてたまらない、歓びと幸せと感謝に包まれた日々を生きていける。


あなたは今、どんな愛の中を「夢中」で生きていますか?


  


  



Posted by exceedblog at 11:01clip!
June 19, 2015

You're Beautiful

想いの源泉にふれる。

人にはそれぞれ特別な「想い」があるが、その想いはどこから来ているのか。
たいていは、幼少期や思春期や育児期の過去体験による。

僕の場合は、「フランダースの犬」かもしれない。

ネロ少年が、最期にルーベンスの絵画を見て、「もう何も思い残すことはないよ」
と言って果てるシーンを見て、感動するどころか、自分は何があればこんな言葉
を言えるだろうか、と考え込んでしまった。

誰にとっても、時間は限られている。
自分にとっても。
目の前にいる大切な人にとっても。
今日と同じ明日が来るという保証はどこにもない。今日が最期かもしれない。

だったら、
大切な人が、これまでの人生で一番素敵な笑顔を浮かべる今日であってほしい。
愛する人が、これまでの人生で一番幸せを感じてくれる今日であってほしい。
「生まれてきて良かった」って、自分の全てを祝福できる今日1日であってほしい。

そのために、今自分に何ができるか。
限られた時間の中で、そこを生ききりたい




「僕の人生は輝いている」という歌い出しで始まり、「君は美しい」と繰り返す
この楽曲は、ラブソングではない。

人生に絶望して、自殺を決めた青年が、最期に美しい女性とすれ違って、
彼女が微笑んでくれたことで、ほんの一瞬だけ心が通じ合えた気がして、
「だから僕の人生は輝いている」と、自分を肯定して死に至る、というもの。

11ヶ国でチャート1位を獲得しながら、後に、自殺幇助の曲とされて放送禁止
になった国もいくつかある。


プロデューサーのトム・ロスロック氏とは、2000年に話をしたことがあって、
こんな内容の話で意気投合した。

  どんなに絶望しても、たった1人でいいから、何も言わなくても自分のことを
  わかってくれて、許してくれて、自分のためにそっと微笑んでくれたら。。。

  その微笑み、内面の輝きこそが本当の美しさ。
  その心の美しさを、その愛を自分に与えてくれたなら、

  死なない。死ねない。
  どんなところからでも立ち上がれる。

  その人の存在が、自分の人生の全てを肯定してくれる。
  その人のためなら命をかけられる。


そして作詞作曲にも加わっている、ジェームス・ブラント本人も、過去に英兵として
戦地に出兵した経験からか、様々な表現を通して、生とは何か、死とは何かといった
命の価値を問いかける重いテーマの楽曲が多い。


だから、この楽曲は自殺幇助の歌ではない。 メッセージソングだ。


15年くらい前に、2000人ほどの来場者が来てくれたイベントのスピーチの中で、
「とても苦しかった時に、死んでしまおうか、と思ったことがありますか?」と
尋ねたことがある。

自分自身も、絶望しかけてそう思った出来事が何度かあったので、意外と多い
だろうと思ってはいたけれど、9割くらいの方が手を挙げて、本当に驚いた。

明るくて、今は希望に満ちて生きているあの人も、
優しくて、誰からも必要とされているあの人も、
仕事ができて賢くて、正義感あふれるあの人も、皆そういう時期を持っていたのだ。

大切な人が、今日、その中を生きているかもしれない。
愛する人が、明日、その中を生きていくかもしれない。

でもその時に、そこに自分が寄り添っていられる保証なんかどこにもない。

自分にできること、命がけでやるべきことって、何だろう。

大切な人を心から大切にするって、どうすることだろう。
愛する人を心から愛するって、どうすることだろう。

そういう大切なことを、子供たちに、大切な人に、愛する人に、体顕し続けたい。

何も言わなくても自分のことをわかってくれて、許してくれて、自分のために微笑んで
くれる存在であり続けたい。
いつも自分を必要としてくれて、いつも両手で抱きしめてくれる存在であり続けたい。

最期の日まで。  


  



Posted by exceedblog at 03:32clip!
January 14, 2015

あなたの幸せって何ですか?

※昨年、facebookにこの投稿をしたところ、7万以上の「いいね!」と3,700以上のシェア
をしていただいたのですが、たくさんの方々から、「facebookに参加していない友人にも
シェアしたいのでブログにも書いてほしい」という要望がありましたので、若干の補足を
入れて、こちらに転記しておきます。




先日26歳になった長女が生まれたばかりの頃、いつも育児を頑張ってくれている妻に
「何がほしい?」って聞いたら、即答で「育児から解放されたい」って返ってきた。
 
それ以来、毎晩数時間、隔週土曜日は朝から晩まで、育児を僕が1人でやるようにして
(ただし搾乳しておいてもらう)、その時間は寝ようと出かけようと何をしても自由、
というパートナーシップを続けたのが懐かしい。
 
妻は妻で、せっかく友人と出かけても胸が張ってしまい、途中でトイレで搾乳したりと
たいへんらしいのだけど、帰ってくると、そんな話を楽しそうに聞かせてくれながら、
やっと吸ってもらえるーと嬉しそうに娘に授乳していて、僕はその姿をながめる時に
幸せだなーと実感した。
 
当時は若かったので、これくらいのことは普通にやるものだと思っていたのだけど...



先日11歳になった娘は、生まれたばかりの頃、よく夜泣きをした。
おっぱいを欲しがるのだけど、妻も無限におっぱいが出るわけじゃないし、何よりも
体液を吸われるのだから、授乳後の母親はとても体力を消耗するらしく、深夜という
ことも重なって、妻もフラフラになる。

そこで毎晩のように、深夜の授乳が始まると僕はリンゴを摩り下ろし始め、これ以上
おっぱいが出ないというところでバトンタッチして、疲れきった妻には寝てもらい、
後は僕が、摩りリンゴをお腹いっぱいになるまで吸わせる、という毎日だった。

もちろん自分も眠いし疲れていたけれど、妻の横に娘を寝かせ、それぞれの満たされた
寝顔を眺めている時、僕はいつも、幸せだなーと実感した。

たいへんだったけど、やっぱり「苦労は半分こ、歓びは一緒に」って思っていたから...



でもこれって、世間一般では、ものすごく特殊なことらしい。
おっぱいも出なくて消耗しきっている奥さんに、「明日も仕事なんだ、何とかしろ!」
って怒鳴ってしまう人も少なくないらしい。
奥さんが心身共に疲弊しきっているのに、自分に何ができるかって行動を起こせない、
起こさない人は少なくないらしい。

だから今、都心を中心に、お母さんの産後鬱が爆発的に増えている。
鬱にならなくても、ほとんどのお母さんが、鬱になりかけるくらいに心身が疲弊する
孤独な育児期を体験している。

 
 
男性諸氏に、ちょっと考えてみてもらいたい。
 
あなたの幸せって何ですか?
 
 
      「愛する人が今日も幸せを実感して目の前にいてくれること」
 
 
それ以上の幸せってのが何かあるんだったら教えてほしいです。
そのためだったら、疲れていようと何だろうと、男ならスーパーマンになれよ、って思う。
 
だって、「幸せにするよ」って誓ったんでしょう?
 
 
もし疲れきって動けなくなっちゃったら、
愛する人が、きっと愛情たっぷりに癒してくれるから、何も問題はないんです。



     ※関連リンク:育児で1番辛いときに「頑張れ」と言われて爆発したときの漫画

     ※関連リンク:何を損なったのか



中学生とか高校生に、お母さんたちの実体験を聞かせてあげられる機会があるといいな
って思うんですよね。特別授業みたいなカタチで。

お母さんたちの話をたくさん聞いて、女の子たちには男性を選ぶ目を養ってほしいと思うし、
「こういう人と結婚したい」「そういう人ってカッコイイ」なんて会話が出てきたりすることで
男の子も、「それがカッコイイのか」「俺もそういう夫になろう」ってイメージできると思う。

そして、出産でできたお母さんの目尻のシミを見て、お腹にできた妊娠線や帝王切開の痕を
見て、こんなに大変な思いをして生み出してくれた大切な命を授かっているんだということ、
与えてもらった大切な人生を生きているんだということを、涙を流して知ってほしいと思う。


共存共栄・共生共助の社会を創るなら、最小のコミュニティーである夫婦・家族の間で
それが当たり前にできていくような教育の機会を作ることからだと思うんですよね。  


  



Posted by exceedblog at 03:40clip!
December 16, 2014

Bryan Adams [ Heaven ]

見返りを求めない、無償の施し、無償の愛
 
僕はそれほど強くないし、それほど立派じゃないから、
もしも、一生何の見返りも無いとしたら、とても今の自分を維持できないと思う。
 
 
愛する人と分かち合いたくて、求めたHUGを拒絶され、
愛する人を愛しみたくて、向けた目線を避けられ、
愛する人と語り合いたくて、投げかけた言葉を切り捨てられ、
愛しているのは自分勝手なエゴなのだ、求めてはいけないのだと自分に言い聞かせ、
 
大切な我が子の気持ちに寄り添いたいのに、何も話してもらえず、
大切な我が子に何かしてあげたいのに、触れるな干渉するなと拒絶され、
大切な我が子の健やかな成長をせめて見守りたいと願うも、家に寄り付いてもらえず、
大切にしたいのは親の勝手なエゴなのだ、求めてはいけないのだと自分に言い聞かせ、
 
それでも、
見返りを求めない愛を与え続けられるだろうか。
 
それでも、
そこに歓びと幸せを見い出して、日々心豊かに生きていけるだろうか。
 
 
僕はきっと、かなりの短期間で優しい気持ちが枯渇して、カラカラの状態になって、
振り向いてもらいたいがための愛、自分を愛してもらいたい・大切にしてもらいたい
がための行為の押し付けに走ってしまうに違いない。
 
その自分を自覚して、どんなに醜く思えても、もう止められなくなってしまうと思う。 
 
だから、それに近い寂しさや切なさを感じた時、とても辛いし、勝手に、とても傷つく。
 
 
せめて、死ぬ間際に「あなたに愛されて幸せでした」「あなたが親で本当に良かった」
と言ってもらえる確約があるのなら、もしかすると耐えられるかもしれない。
 
でもやっぱり本音を言えば、死ぬ間際にそう言われるよりも、明日、全力でHUGされて
「あなたに愛されて幸せです」「あなたの子供として生まれて幸せです」と言われたい。
 
結局、自分はエゴから抜け出せない弱い存在なんだ、と認めるしかない。
 
 
 
人は、電車に乗っていて、後から乗ってきた見知らぬ乗客が、自分の隣の席ではなく
向かいの席に座っただけで、「選んでもらえなかった」「拒否された」と感じてしまう。 
 
統計によれば、そうして人は、気づかぬうちに毎日27人を傷つけて生きていると言う。
言い換えれば、人は勝手に、毎日27回「傷ついた」と感じて生きている、ということだ。
 
人は、それほどまでに、拒否されたくない。 認められたい。
人は、それほどまでに、見返りがほしい。 大切にされたい。
 
自分の存在意義を見い出したい。
自分らしく生きていていいんだ、ここに居ていいんだ、必要とされているんだ、と感じたい。
 
 
それは、僕だけじゃない。
そして、あなただけじゃない。
 
どこまで行っても、自分はその一員であり、
同様に、どこまで行っても、目の前にいる愛する人・大切な人も、その一員なんだ。
 
 
 
だから、
「今日自分が何に傷ついたか」を数えるより、「今日どんな承認をしたのか」を数えよう。
 
承認って言うのは、共感してもいないのに「わかるわかる」って話をあわせてあげたり、
感じられないものを無理やり取ってつけて「褒めてあげる」ことじゃない。
 
愛する人・大切な人の、どんな些細な素晴らしさも見逃さないこと。
どんなに見えづらくても、わかりづらくても、自分がどんなに忙しくても、疲れていても、
大切な人の、優しさ、温かさ、素晴らしさ、美しさ、愛おしさ、を絶対に見逃さずに、
 
照れることなく、臆面も無く、
「あなたは素晴らしい」「そういうところが大好きだ」「あなたは美しい」「私の誇りだ」
と、笑顔で平然と言ってのけよう。
 
愛する人大切な人が、今日も居てくれることに感謝して、「ありがとう」と伝えよう。
 
 
 
だって、そこに居てくれなかったら、愛することも、大切にすることも、もう叶わないんだ。
そして、自分の命が永遠でない以上、永遠に愛することも大切にすることも、叶わない。
相手を失ってから、時間を失ってから、どんなに後悔しても、もうすべては叶わない。
 
これからも自分が大切に関われる時間は限られている
エゴにしか生きられない自分にできることも限られている。
 
 
だから、
今日という日があることに感謝して、
愛する人、大切な人が、今日もそこに居てくれることに感謝して、
自分次第でいかようにも大切な価値を持たせられる時間がそこにあることに感謝して、
 
自分の五感をすべて傾けて、愛する人・大切な人の素晴らしさを1つも見逃さず、承認する。
27回も傷ついてそこにいる、愛する人・大切な人の素晴らしさを決して見逃さず、承認する。
言葉にならなければ、言葉で足りなければ、何度でも全力でHUGする。
 
 
最期に言ってもらえたらすべてが報われるソレを、言葉で、態度で、毎日、照れずに、自分が顕す。
 
あなたを愛することができて幸せです
 
生まれてきてくれてありがとう
 
 

 
 
僕に必要なのは 愛だけ
いい時も悪い時も 変わらずずっと君のそばにいるから
ここが天国なんだ  


  



Posted by exceedblog at 03:42clip!
September 13, 2014

目を醒ます

光あるところに影がある。

でも、影ができるのは、目の前にある何かが光を受けているからであって、
それが影になるわけではなく、影はその後ろにあるのだ。


光と対をなしているのは闇。

でも、たとえどんな闇があったとしても、そこに闇という「モノ」が存在している
わけではなく、闇とは、光が差していない「状態」にすぎない。

あなたがどんな闇の中を生きていたとしても、そこにどんな闇を抱えていても、
やはりそれは、光が差していないという状態にすぎない。


存在しないモノを恐れて目を閉じてしまわずに、目を開け、目を凝らして見る。
やがて目が慣れてくると、薄ぼんやりと、輪郭が見えてくる。

そして、そこに充分な光が差していないだけなのだと気づく。

無意識に。


この無意識の気づきは、光というものが存在する、というあなたの知識による。


でも、そこで闇が闇でなくなった次の瞬間、人はもっと良く見えるようにと、
光を求めて、光源を探し始める。 遮っている何かを探し始める。

無意識に。


その無意識は、闇を恐れる自分のココロからくる。
その無意識は、闇の存在を肯定しているココロから出発している。


そう、そこにあった。
確かにそこに、自分の内側に闇があったのだ。

知識ではわかっていても、頭では、闇は「闇という得体の知れないモノ」ではない
とわかっていても、それでも尚、自分を動かしている無意識は、闇を肯定している。

それがある限り、どこまで行っても、あなたは「闇を恐れている自分」に、無意識
に動かされ、そこに自分を見い出せない。


無意識によって動かされている自分は、常に求めている。

常に求めているから、そこに「承認できる自分」は見い出せない。
認めたくない自分、嫌いな自分、肯定できない自分しかいない。

肯定しないのだから、そこにあなたはいない。

たとえ物理的に、カーテンを開けて光を当ててあげるという、与える行動をした
としても、その本質は、求めている。 求めているから与えているに過ぎない。

だから、あなたが求めているものは、決して手に入らない。

あなたが求めているあなたには、決して出会うことはできない。



だからそこで、全ての思考と行動を止める。
止めて、消して、空にする。

そして静かに自分の無意識に目を向けると、闇を恐れていた自分に気づく。


この気づきは、意識による。


意識で気づけると、自分はなぜ闇を恐れているのかと思考することができる。

これは意識による考察だ。



無意識から解放され、意識によってそこに自分を生かせると、

光が差していないから薄ぼんやりと輪郭しか見えない、と思えていたものたちが、
なぜ光に照らされていないのか、本当は何によって光を遮られているのか、に気づく。

光を遮っていたのはあなた自身であり、すべては自分自身の影だったのだ、と。


そこに闇があったのではなくて、闇を抱えるあなたがそこにいたことで、
あなたの世界のすべてが影になっていた。
否、影になっていたのではなく、すべてに影を見い出している自分があったのだ。

意識によって生きるあなたは、次々に気づいていく。
さっきまでと同じ視界を見ながらも、そこにまったく異なる真理を見い出していく。



あなたは光を受けている。

あなたに光が当たっているから、そこに影がある。
その影は、あなたの後ろにできている。

前だと思っていたそこは、後ろだったのだ。
後ろ向きに、輪郭だけうすぼんやりと、彼(彼女)を見ていただけだった。
つまりそこには、あなたもいなければ、彼(彼女)もまたいなかったのだ。

だから、向き直れば、そこに光がある。
あなたはいつだって、光を受け続けている。

光に背を向け続けていたのは、自分自身だったのだ。
影を見ていたのではなく、光を見ないようにしていたのだ。
闇を肯定し続けていたのだ。
否、闇を肯定していたのではなく、もうこれ以上自分が傷つきたくなかったのだ。

あなたの無意識は、あなたの望むとおり、傷つきたくないあなたを守っていたのだ。

無意識に。



意識による気づきは、あなたに今までと全く性質の異なる行動を起こさせる。

意識的に。

そしてあなたは、感謝を見い出す



ふたたび振り返ると、もうそこには、影は無い。

内側で肯定されていた闇を消し去ったからではない。
あなたの中を空にして、透明になって、遮る存在でなくなったから、でもない。


あなた自身が、照らす存在になったからだ。


与えているのではない。
貢献しているのでもない。

そこにはただ、光を纏ったあなたが存在している、だけなのだ。



金太郎飴は、どこまで行っても、金太郎。

ずっと先まで行くと、少しずつ変化しているものの、結局はどこまで行っても、
少しカタチが変化した金太郎、であるに過ぎない。

無意識の自分に動かされ続けている限り、どこまで行っても、少しずつ良くなって
いるように思えても、少しずつ自分を好きになれているように思えても、所詮それは
目が慣れて薄ぼんやりと輪郭が見えてきただけに過ぎない。

本質的には、何も変わらない。


止めて、消して、空にして、無意識を意識する。


無意識を意識していくと、愛したい、愛されたい、自分が見えてくる
遠い昔に居た、居心地のいい、安息の場所。

そう、
子宮から追い出されたあなたは、ずっとあるはずのない子宮を捜し求めていたのだ。
それを愛と呼んで、彼(彼女)や子供に求めようとして、
それを自己実現と呼んで、自分自身に求めようとして、
あるはずのない愛と、愛に生きられる自分を求め続けていたのだ。

無意識に。



愛って何だろう?

昔の子供向けTV番組の主題歌で、

愛って何だ? ためらわないことさ。
愛って何だ? 悔やまないことさ。  っていう歌詞の歌があったっけ。


どれほどの知識を持ってしても、無意識に動かされているあなたは、常に求めている。

常に求めているあなたは、たとえ物理的に誰かに何を与えたとしても、本質的には
何も与えられないし、たとえ知識で愛を語り、物理的に肉体を重ね合わせたとしても、
本質的にはその指先さえ何にも触れてはいない。

そこにあなたはいないから。
そこに彼(彼女)もいないから。



無意識を意識する。

脳によって制御されている二つの目で世界を見るのではなく、無意識を意識することで
あなたのエネルギーによって制御されている第三の目を開き、しかと見る。 見極める

あなたは感謝というエネルギーを受けている。
エネルギーに満ちている。


無意識から抜け出し、意識によって自分を生かす

目を醒まし、その目で意識的に見極める。

それを繰り返し、意識による気づきを重ねていくことで、
あなたは、あなたの歓びと幸せに一歩ずつ近づいていく



ごらん。

君の大切な人は、いつも愛を湛えている。

君が愛の存在としていつもそこに在るから。


君は意識によって愛を生きているから、ためらわないし、後悔もない

君は常に愛を抱いていて、常に愛に抱かれている


君は、君らしく生きている。

光をたたえて、優しく、温かく、力強く、眩いばかりに輝いている。



  


  



Posted by exceedblog at 03:45clip!
August 02, 2014

すべてを乗り越えて

つらい時に、ほんの少しだけ、口角を上げて微笑む。

崩れ落ちそうな時に、ゆっくりと顔を上げて、微笑む。


今までだって、数え切れないほど、打ちのめされ、泣き崩れ、
結果に落胆し、自分に失望し、あきらめそうになったけれど、
その度に何度でも戻ってきたではないか。


崩れ落ちそうな自分にベクトルを向けない。
そのまま堕ちていってしまいそうになるのを必死で踏みとどまって、
そんな今の自分でも、目の前の大切な人のために今何ができるか
を必死で考える。

何もできそうもになかったら、何も言葉が出てこなかったら、
今の自分にできる精一杯の微笑みをもって、大切な人を愛しむ。

昨日までの自分なら、きっと打ちのめされていたであろう場面で。
昨日までの自分なら、誰かに救いを求めていたであろう場面で。


そうして、昨日までの自分を越えていく。 自分を成長させていく。

その道を歩み続ける。


  


  



Posted by exceedblog at 03:31clip!
May 16, 2014

星に願いを

中学2年生の時、どうしてもどうしても叶えたい、実現させたいコトがあって、
でもその時の状況では、それはキセキでも起きない限り実現不可能だったので、
「流れ星が消えるまでに3度願いを言えば叶う」を実行しようと、ペルセウス座
流星群に合わせて、静岡まで行ったことがあります。

満天の星空で天体ショーが始まると、流れ星を見つけてから願い事を口にしても
間に合わないので、願いをあらかじめ短い言葉に変えて、ずっと唱え続けること
1時間半...ついに流れ星が消えるまでに3度言いきることに成功したのでした。

その後深夜まで、今の自分では何が足りないか、その時までにどうなっていれば
届く可能性があるか、そのためには、どれだけの準備と努力の積み重ねが必要で、
それをどのように実行するか...思いつく限りをノートにまとめて、実行計画は
帰りの新幹線の中で、ようやく描ききれたのを覚えています。

それから2ヶ月間、全力でそれを実行して、ついに迎えた勝負の時。
キセキの連続はいとも簡単に起きて(起こして)、願いは実現したのでした。


果たして、流れ星に願いをかけたから、願い事が叶ったのか。
それとも、必要な努力をやりきったからそれが実現したのか。

いずれにしてもそこにキセキが起こり、努力は報われたのです。


あの時、欲しかったもの。
あの時、手に入れたもの。

どんなにささやかな望みであったとしても、気持ちだけでは追いつかないもの。


     <希望><可能性><心の支え>、

              そして<コミットメント>。


それが無ければ、たとえ綿密な計画をたてても、素晴らしい手段を講じても、
決して扉は開かれないし、決してそこに辿りつけはしないのです。


自分の中にこだまする「やっぱり無理だ」の声に、ただ耳を塞ぐのではなく、
可能性を信じられる、希望を持てる<心の支え>(コトだったりヒトだったり)
を掴んで離さず、自分自身を<成長>させていくことで、本当に「強くなる」。

実現・達成するには、自分自身を<成長>させることこそが唯一の鍵なのです。

キセキを起こすには、
「強がり」を捨て、<成長>することで本当に「強くなる」しかないのです。



今でも毎晩のように空を眺めては、子供のこと、大切な人・愛する人のことを
想って、星に願いをかけます。

今日の出来事が、この子の成長の機会となりますように。。。
これからの出来事が、大切な人を強くしてくれますように。。。





あなたの望みは何ですか?

実現したい、成功させたい、守りたい。。。そこにはどんな「想い」がありますか?

その計画は、自分自身に、それに相応しい<成長>の機会を与えていますか?



どうしても成功させたい事業なら、そこに大切な想いがあるのなら、

     今すぐ計画を立てろ!
     絶対にキセキを起こせる計画を!!
  


  



Posted by exceedblog at 05:33clip!
May 05, 2014

承認

もし、あなたの親兄弟たちが完璧な人だったら。

あなたは、自分に何の価値も見いだせなかったかもしれません。


もし、あなたの愛する人が完璧な人だったら。

あなたは自分を蔑み、罪悪感に耐えられなかったかもしれません。


もし、あなた自身が完璧な人だったら。

あなたの正論が、弱く脆いすべてを不幸にしていたかもしれません。


大切な人に、完璧を求めてはいけない。
自分自身に、完璧を求めてはいけない。

それは、あなたが本当に求めていたものとは違うはずです。



あなたが最も大切にしたいものは何ですか?



そこにそれさえあれば、
不完全で、不器用で、足りないところだらけのあなたのすべてが、
魅力であり、可能性であり、未来であり、人の心に灯りをともすのです。


完璧でないからこそ、君は眩しくて、素晴らしい


そう言って、大切な人の手を握りしめる。

そう言って、格好悪い自分を承認する。  


  



Posted by exceedblog at 02:06clip!