『子どもに愛を注がない親たちを許せない!』
と彼女は言う。
湖面に浮かぶ枯木に心をとらわれていた時、
ふと引いて、湖全体を見渡すことができると
その枯木は湖の一部に過ぎないことに気付き、
客観的で思慮深い判断をすることができる。
『どんな親にも自分の子どもを愛してほしい』
と彼女は言い換えた。
何故、湖面の枯木に心をとらわれたのか。
何故、そう思ったのか。
自分の「思い」と向き合うことで、視点は
水面下へと入り、先ほどまでとはまるで別の
視界を持つことができる。
受け流すこともできたのに、その思いがあった
から、親たちを許せない、とまで言わずには
いられなかった。 枯木に心をとらわれた理由
は、相手、ではなく、私(の思い)だった。
『私はどんな子にも愛を感じて生きてほしい』
と彼女は自分の思いに従って言い換えた。
でも、別の視界を持てたことで、全てを悟った
気になってはいけない。 悟った気になって、
もっと大切なことを見逃してはいけない。
実はまだ、何もわかっていないに等しい。
そう思う、そう思考するのは、自分自身に深い
「想い」があるからだ。 湖面よりもっと深く
にある、自分の「想い」と向き合う。
『私は、自分が親からもっと愛されたかった』
『だから、そういう子に昔の私自身が重なる』
『かつての私のような思いをしてほしくない』
と彼女は想いを吐き出した。
そして微笑んで言った。
『私は“自分の親を許したかった”のですね』
湖面からだいぶ深いところまで行くと、
コトの本質は自分の根っこにあることに気付く。
その上で、
『私は、そういう子の幸せのために生きたい』
と彼女は想いを込めて言った。
私は、っていう言葉には、他の人はそうではない
という気持ちが込められている。
ために、っていう言葉には、自分を正当化したい
気持ちが込められている。
幸せ、っていうのは、自分から見た幸せ?
それとも本人が感じるところの幸せ?
そこにまだまだ自我がある。
誰と戦っているのだろう?
何と戦っているのだろう?
誰に認めてほしいのだろう?
何を認めてほしいのだろう?
自我が含まれた想いを込めての言動は、For You
になりきらない。 その雑多なバイブレーション
が全てのコトを鈍らせる。
自我の無い、ただ純粋な、想いの源泉にふれる。
その湖の、一番深いところの、一番真ん中にある
想いの源泉にふれる。
想いの源泉から来る言葉は、シンプルで美しい。
『全ての子どもを笑顔にしたい』
と彼女は言った。
穏やかな眼差しで、しかし、力強い言葉で。
『全ての子どもたちを笑顔にしたいですね』と、
私も言葉を返した。