June 26, 2009

見つけてほしくて

人は誰でも、この世に生を受けてから、まだ1人では
呼吸することさえできない未成熟な時期を、長い期間
母親の子宮の中で過ごします。

そこでは常に守られ、包まれ、必要な全てを与えられ、
満たされて毎日を送ります。

でも産まれることによって世間に放り出され、不都合
や不具合が生じ、わかってもらえない苦しみや悲しみ
を知り、そして自立を余儀なくされます。

どんなに苦しくても、どんなに切なくても、どんなに
また子宮の中に戻りたいと思っても、あるいはそれを
母親に求めても、2度とあの場所へは戻れません。

だから、立ち止まる。

そして居場所を失い、自分の存在意義さえも見失い、
途方に暮れて迷路をさまよい続けるのか、それとも
いつかどこかで気付き、あの場所に代わる安息の地を、
自分を100%認めて包んでくれる居場所を、外の世界に
見出そうと前へ進むのか。

でも、その道はとても曲がりくねっていて、いつも
霧がかかっていて、決して視界は晴れません。

いっそのこと目を閉じて、そこにある道じゃなくて、
自分の道を見出した時、実はその道がまっすぐな
1本道で、そして目指すものがその先にあることを
目視することができます。

だから走って、走って走って、走り続けるのだけど、
何故だろう、進めば進むほどそのゴールは遠ざかる。
確実に近づいているはずなのに、この1本道に永遠
の距離を感じてしまう。
その目的地に答えは見出せても、そこに本質はない。


ずっと昔、いつも自分を包み、“ぬくもり”を与え
てくれた人に会いたくて、その人と向き合って触れ
合える喜びを感じたくて、幸せに満たされる世界に
生まれてくるはずだったのに・・・

そこにはそれが無かったんだ。
充分ではなかったんだ。
だから、その時からずっと悲しくて、切なかったんだ。
そして、その気持ちを、そこに置いてきていたんだ。

自分の人生も、相手の人生も、誰かの人生も、みんな
そこから始まっていたんだね。


あの時、置き忘れてきてしまったものを、取りに行こう。
それは自分の中の、ずっと奥に、まだそのままである。

   「おーい、ボクはここにいるよ」
   「誰かボクの存在に気付いて!」

彼は、見つけてほしくて、わかってほしくて、ずっと
そこで叫び続けていたんだ。


彼は、子宮の中で自分と共にあったもの。
自分と共に生まれ出たもの。
生まれて最初に自分に芽生えたもの。
ずっと一緒に育ってきたもの。
ずっと忘れ去られていたもの。

そして、いつか必ずあなたが見つけてくれることを
信じ、そこに居続けて、待ち続けてくれたもの。
いくら耳を塞いでも、手放そうとしても、ずっと。

彼は手放すべきものじゃなくて、愛しむべき存在。

愛しみ、分かち合えた時、遊離していた自分という
存在が融和して、今度は誰かの中の奥から聞こえる
同じ声に耳を傾けることができます。

君も同じように始まっていたんだね。


そこに、ずっと追い求めていたものがあるのです。


一事が万事。ビジネスも成功も、生きがいも幸せも、
何かを見出せない者は全てを見出すことができず、
しかし、何かを見出せた者は全てを見出せる。


  



  



June 12, 2009

この雲の上にきっと・・・

PCや携帯のデータを消失させてしまった経験がある人は結構いると思う
んですけど、僕は過去に数人、記憶の一部を失った人たちを知っています。

人によって、失われた記憶は数日間、あるいは数年間にわたるのですが、
大切な思い出・大切な絆・・・それらを思い出すことができない本人の辛さ
は勿論、共に過ごした日々のことを思い出してもらえないこともまた、
例えようがないほど辛く切ないものです。

思い出したくもない記憶だってあるかもしれないけれど、仮にそれらを
無くしても「自分」であることに変わりはないけれど、それでもやはり、
そうした思い出の1つ1つが今の自分を構成しているのだと思います。

本当は記憶から消えてやしないのに、何となく思い出さないふりをして、
「ありがとう」や「ごめんなさい」をどこかへ置いたままにしている相手
には、それを言える時に伝えておきたいものですね。

時間には限りがあるのですから。 自分にも。相手にも。


 


良い時も悪い時も、その先が見えなくなってしまった時、僕はいつも思います。

        「この雲の上に きっと続きがあって・・・」

どんな続きがあったら素敵だろうか。
どんな続きを見ることができたら、心から喜べるだろうか。

その続きがどうなるのかは、自分がどの扉を開くのか、次第。
その扉の開け方は、もう知っているはずです。 believe in myway !  


  



Posted by exceedblog at 10:28clip!あなたから誰かへ 
June 04, 2009

Love & Peace

「愛」と「平和」。


小学校に男が侵入して、児童を殺傷した事件がありました。
あまりの惨さに、その殺し方は報道されませんでしたが、
事件を目撃した児童たちは今もPTSDに苦しんでいます。

彼のような人間がいない世の中であることが理想です。
でも、現実に存在したわけで・・・

もし自分の子どもが通う学校にそんな男が侵入しようとして
いたら、私はどんな手を使ってでもそれを阻止するでしょう。

土浦市の連続無差別殺傷事件の犯人は、逮捕後、弁護人から
「被害者の恐怖感や遺族の悲しみを感じないか」と尋ねられ、
「ライオンはシマウマを殺すとき、そういうことを感じる
でしょうか」と答えたそうです。

彼のような人間がいない世の中であることが理想です。
でも、現実に存在したわけで・・・

もし自分の妻や妹のいる場所にそんな男が突入して行ったら、
私はどんな手を使ってでもそれを阻止するでしょう。

戦争にも武装(自衛隊)にも反対ですが、それでもそうした
危機的あるいはその疑いがある状況において、話し合う余地
さえないのなら、大切な人を守るために、命がけで実力行使
をするでしょう。 何かされても仕方ないとは思えません。
だから、平和主義と非武装には賛同できません。


ヤクザ風の男が電車内で連続レイプ事件を起こしました。
女性が連れて行かれるのを見て見ぬ振りした乗客も多数存在
しています。 その姿は女性の目にどう映ったでしょうか。

彼のような人間がいない世の中であることが理想です。
でも、現実に存在したわけで・・・

もし自分の愛するものが連れて行かれようとしていたなら、
命がけで実力行使をするでしょう。 他の誰かが何とかして
くれることに依存することはできません。

小さな平和も、大きな平和も、これと同じことだと思います。

そういうリアルを抜きにした理想論は、机上論でしかない。
だから、戦争にも武装(自衛隊)にも反対ですが、理想論者
が唱えている平和主義と非武装には賛同できません。


平和について、自衛隊問題について、憲法9条問題について、
日本の歴史観・戦争観について、反戦について、死刑制度に
ついて、これまで様々な意見・主張を耳にしてきましたが、
いまだ理想論者の言葉でリアルにフィットするものがありま
せん。 そして同時に、肯定論者の言葉で心にフィットする
ものもありません。 歴史教育についても同様です。

また、愛するものを自分自身が守ることができるのは、ごく
短い期間のわずかなタイミングに過ぎません。

それでも、愛するものには生涯、平和の中で愛と喜びと幸せ
に満たされて生きてほしいと願っています。 そういう世界
にしたい、そういう時代にしたい、と願っています。

愛と平和こそが最も尊いのだと、堂々と教科書に書いてあり、
そのように心が育まれていく世の中であってほしいです。
子どもたちがその姿勢を大人から学び、感謝と尊敬の念を持
ってそれを受け継ぎ、また手渡していく・・・そういう世の中に
なってほしいと心から願うばかりです。


武装とは、必ずしもそれが兵器である必要はありません。
平和とは、圧力と牽制で成すならそれは本質ではありません。
愛とは、相手の主張を無条件で受け入れることではありません。

本気で愛と平和を語るなら、どんなミサイルにも屈しない心
で、all or nothing じゃなくて、リアルなプロセスを作って
いかなくてはなりません。

ジョン・レノンが歌ったimagineは、薄っぺらな平和主義じゃ
なくて、リアルな現実を踏まえた上での“覚悟”があっての
Love & Peaceなのだと思います。


生前、マザー・テレサはこのような質問を受けました。

「あなたのような影響力のある人が反戦活動に参加したなら、
多くの人が“戦争反対”と声をあげるのに、なぜ、あなたは
“戦争反対”と声をあげないのですか?」

マザー・テレサは、こう答えたそうです。

「私は反戦活動には参加しません。でも、平和賛成という活動
なら、喜んで参加いたします。いつでも声をかけて下さい」  


  



Posted by exceedblog at 09:59clip!めざすべきもの 
June 01, 2009

「壁」と「卵」

作家の村上春樹さんが、イスラエル最高の文学賞
「エルサレム賞」の受賞式でスピーチした内容。


−−−−−−−−−−


本日、僕はここエルサレムに、
プロフェッショナルな「嘘」の紡ぎ手、
すなわち小説家としてやってきました。

もちろん、嘘をつくのは小説家だけではありません。
政治家もまた、嘘をつきます

外交官も、軍人も、機会さえあえば、
中古車のセールスマンや肉屋、建築業者であっても、
彼らなりの嘘をつきます。

しかしながら、
小説家のつく嘘は、彼らの嘘とは違います。

彼らが嘘をついた時のように
不道徳だと責め立てられることはありません。

それどころか、
小説家の嘘が器用であればあるほど、
世間や批評家たちからより大きな賞賛を得ることが
できるのです。

これはなぜでしょうか?
僕なりの答えはこうです。

つまり、小説家によってつかれた巧妙な嘘は、
あたかも本当のように見えるフィクションを作り出すこと
によって、新たな場所に「真実」を導き出し、
その真実に新しい光りを照らすことができるからです。


多くの場合、「真実」をもとのかたちのまま理解し、
正確に表現することは事実上不可能です。

だからこそ僕たち小説家は、
その隠された場所から真実を誘い出して尻尾を掴もうとし、
フィクションの位置に移し替え、
フィクションのかたちにそれを作り替えるのです。

しかし、僕たちがこれを達成するためには、
まず最初に真実が僕たちのどこに属するのかを、
はっきりさせる必要があります。

これが、上手に嘘をつくための重要な資質です。

 
けれども本日、
僕は嘘をつくつもりはまったくありません。

それどころか
できるかぎり正直でいようと努めます。

僕にだって年に数日は嘘をつかない日があるし、
今日はたまたまその日なんです。

ですから今日は、
どうか皆さんに本当のことを言わせてください。


本当に多くの人々が、僕に
「エルサレム賞を受け取りに行くな」
と忠告してきました。

或る者は、もし僕が受賞するなら僕の本に対して
ボイコットを扇動すると警告さえしました。

その理由はもちろん、ガザで激しく続いていた戦闘です。

国連のレポートによれば、
封鎖されたガザ地区では 1000人以上の非武装市民
子供や老人たちが命を落としました。
 

受賞の通知を受け取ってから、僕は何度も何度も
自問しました。

「こんな時期にイスラエルにまで旅行して、
 文学賞を受け取ることは適切な行動なのだろうか?」、

「僕はどちらか片方を支えることになり、圧倒的な軍事力を
 行使する国策を是認したと思われやしないか?」。


もちろん僕は、そんなふうに受け取られるのは御免です。

僕はどのような戦争にも賛成しないし、
どのような国家も支援しません。

そしてむろん、
僕の本がボイコットの憂き目にあうのを
見たくはありません。


しかしながら、熟考のすえ、
最終的に僕はここに来ること決心しました。

僕がここに来ると決めた理由のひとつは、
あまりにも多くの人々が僕に
「行くべきでない」と言ったことです。

おそらくほかの多くの小説家と同じように、僕は天の邪鬼です。

多くの人々から
「そこに行くな」、「それをしないでくれ」
と警告を受けると、そこに行き、それをしたくなる
傾向があるのです。


あなた方は 「それは小説家だからだよ」
と言うかもしれません。

そう、確かに小説家は特別変わった種族です。
この連中は、自分の目で見たもの、手で触ったものしか
本当に信じることができないのです。

それが今日、僕がここにいる理由です。


僕は立ちすくむよりもここに来ることを、
目を反らすよりも見つめることを、
沈黙するよりも語ることを選びとりました。

これは僕がいままさに、政治的なメッセージを伝えにきた、
という意味ではありません。

もちろん、
あることについて正しいのか、間違っているかの
判断をすることは、小説家の重要な義務のひとつです。

けれども、こうした判断をどうやって他の人々に伝えるかを
決めるのは、それぞれの書き手に任されています。

僕自身は、そういったことを物語、それも超現実的な物語
に移し替えて示すことを好みます。

これが今日、僕が直接的な政治的メッセージを
伝えないにもかかわらず、皆さんの前に立った理由です。
 

しかしながら、どうか皆さん、
ここで非常に個人的なメッセージを送らせてください。

これは僕がフィクションを紡ぐ時、
常に心に留めていることです。

僕はそれを一枚の紙切れに書いて壁にはっておくというよりも
むしろ、僕の「心の壁」に彫りつけられていること……

それはこういうことです。
 

「高く、固い“壁”と、それにぶつかると割れてしまう
 “卵”があるとき、僕はいつも卵のそばにいる」


ええ、どんなに「壁」が正しく、どんなに「卵」が
間違っていようとも、僕は「卵」のそばに居続けます。

どこかの誰かが
「何が正しくて、何が間違っているのか」
を決めるとき、それはおそらく時間と歴史が決めるのでしょう。

けれどもし、どのような理由があろうとも、
壁のそばに立って仕事をする小説家がいたとしたならば、
その作品にはどんな価値があるというのでしょうか?
 

このメタファー(暗喩)は、いったい何を意味しているのでしょうか?

それはいくつかの場合において、とてもクリアで単純です。


高く固い「壁」とは、爆撃機であり、戦車であり、
ロケット砲であり、白リン弾です。

そして「卵」とは、それらに壊され、燃やされ、撃たれる
非武装市民……、

これがその暗喩が意味することのひとつです。


けれどもそれがすべての意味というわけではありません。
もっと深く考えることもできます。

こう考えてはどうでしょう。

僕たちひとりひとりが、多かれ少なかれ「卵」なのです。
僕たちは唯一かけがえのない魂を内包した、
壊れやすい殻に包まれた卵なのです。

これは僕にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります。

そして僕たちはそれぞれ、――多少の違いはあっても――
高くて固い壁に直面しています。

その「壁」の名は、そう、「システム」です。


システムは僕たちを守り固めるためのものですが、
しかし時折自己増殖して、冷酷に、効果的に、システマティックな
方法で、僕たちに殺し合いをさせるようし向けます。
 

僕が小説を書く理由は、ひとつしかありません。

それは個々人の魂の尊厳を立ち表わせ、光りをあてることです。


「物語」の目的とは、システムが僕たちの魂を
蜘蛛の巣のように絡め取り、その品位を落とすことを防ぐために、
警戒の光りをあて、警鐘を打ち鳴らすことです。


僕は強く信じています。
物語を書きつづること、人々に涙や慟哭や微笑みをもたらす
物語を書くことによって、個々の魂のかけがえのなさを
はっきりさせようとし続けること、それこそが小説家の仕事であると。


僕の父は昨年、90歳で亡くなりました。
彼は教師をリタイヤし、たまに僧侶として働いていました。

彼が大学院にいた頃、軍隊に招集され、中国戦線に送られました。
戦後生まれの僕は、彼が朝食前に必ず家の仏壇の前で
深く祈りを捧げる姿をよく見かけました。

ある時、僕は父に「なぜお祈りをするの?」と訪ねたところ、
彼は「戦争で亡くなった人のために祈っている」と答えてくれました。

彼は敵味方の区別なく、すべての人のために祈りを捧げている、
と語っていました。

仏壇の前で正座する彼の背中を見ると、僕は彼に
死の影がまとわりついている、と感じました。
 

そんな僕の父も、彼の語った思い出とともに死にました。
僕はもうその思い出を知ることはできません。

けれど、彼のまとっていた死の存在感は、
僕の記憶に残っています。

それは彼が僕に遺してくれた数少ないなかのひとつ、
そして最も重要なものです。
 

僕は今日、皆さんにお伝えしたかったことは
ただひとつです。


僕たちは誰もが人間であり、国籍や人種や宗教を超えていく
個人であり、システムと呼ばれる固い「壁」に直面する
「卵」だということです。


僕たちに勝ち目はなさそうです。
壁はあまりにも高く、あまりにも強く、そしてあまりにも冷たい。

もし僕たちに勝利の希望がいくらかあるとすれば、
それはかけがえのない独自性を信じ、自分と他の人々の魂とを
互いにつなぎ合わせた「暖かさ」に頼るしかありません。
 

少し考えてみてください。
僕たちはそれぞれ、いまここに実態のある魂を持っています。

システムはそれを持っていません。

僕たちはシステムが僕たちを司ることを
許してはなりません。

僕たちはシステムがひとり歩きすることを許してはなりません。

システムが僕たちを作ったわけではない。
僕たちがシステムを作ったのです。
 

これが今日、僕が皆さんに語りたかったことのすべてです。
 

僕はエルサレム賞をいただいたことに感謝します。
僕は世界中の多くの地域で僕の本が読まれていることに感謝します。

そして今日ここで、皆さんに語る機会をもらえたことにもまた、
感謝します。  


  



Posted by exceedblog at 15:24clip!あなたから誰かへ