落ち込んだ時、失望した時、人は溜息まじりに俯いて下を見ます。
そして自ら進んで、わずか1m半程の奥行きしかない、薄っぺらな
世界の住人になってしまう。
希望を持った(あるいは持とうとした)時は、目線を上げて上を見ます。
意志を纏った瞳を天に向け、どこまでも深く広がる青空を眺めます。
でもその時、つい白い雲に意識を奪われてしまう。
雲の色や状態やカタチに自分の記憶の何かを重ね、同調してしまう。
そして何かを悟った気になって、何かをつかんだ気になって、
そこまでの領域で、雲と同期したコミットメントで、歩み出してしまう。
ちょっと待って!
あなたが見ようとしたのは、
あなたがアクセスしようとしたのは、
あなたがめざそうとしたのは、その先に果てしなく広がる空だったはず。
惑わされてはいけない。
内側の世界と外側の世界は常にシンクロしています。
「今この瞬間の自分」を起点として、
自分が「進むべき道」は、自分が「どこから来たのか」と対になっていて、
これから「どこを目指すか」は、「何から始まったのか」と対になっていて、
物理的に「受け取れるもの」、手に「つかめるもの」は、「自分自身の本質
をどれだけ自分のモノに出来たのか」と対になっています。
空を見ようとしたのに、そのはるか手前にある雲に同期してしまうことは、
自分の想いやエネルギーにはアクセスしているものの、その本当の始点、
つまり、
「想いの源泉」、「川の流れの最初の一滴」には、まるで触れていないこと、
すなわち、
何も受け取れていない、何もつかめていない、何もコミットできていない、
のと等しいことなのです。
雲は、いつでも姿を変え、カタチを変え、そこに漂っています。
でもそれが問題なのではないし、そこに問題があるわけでもありません。
たとえ、どんより曇っていても、空全体を覆っていても、雨が降っていても、
その上空にはいつだって、果てしなく深く、広い、青空がそこにあります。
それを見て(感じて)、そこに意識を置く。
それは、
「想いの源泉」に触れること、「川の流れの最初の一滴」を握りしめること。
そこに真理があり、自分の真価があり、開かれる未来があります。
あなたはいつだって、青空の下で呼吸をして、成長し続けているのです。