光あるところに影がある。
でも、影ができるのは、目の前にある何かが光を受けているからであって、
それが影になるわけではなく、影はその後ろにあるのだ。
光と対をなしているのは闇。
でも、たとえどんな闇があったとしても、そこに闇という「モノ」が存在している
わけではなく、闇とは、光が差していない「状態」にすぎない。
あなたがどんな闇の中を生きていたとしても、そこにどんな闇を抱えていても、
やはりそれは、光が差していないという状態にすぎない。
存在しないモノを恐れて目を閉じてしまわずに、目を開け、目を凝らして見る。
やがて目が慣れてくると、薄ぼんやりと、輪郭が見えてくる。
そして、そこに充分な光が差していないだけなのだと気づく。
無意識に。
この無意識の気づきは、光というものが存在する、というあなたの知識による。
でも、そこで闇が闇でなくなった次の瞬間、人はもっと良く見えるようにと、
光を求めて、光源を探し始める。 遮っている何かを探し始める。
無意識に。
その無意識は、闇を恐れる自分のココロからくる。
その無意識は、闇の存在を肯定しているココロから出発している。
そう、そこにあった。
確かにそこに、自分の内側に闇があったのだ。
知識ではわかっていても、頭では、闇は「闇という得体の知れないモノ」ではない
とわかっていても、それでも尚、自分を動かしている無意識は、闇を肯定している。
それがある限り、どこまで行っても、あなたは「闇を恐れている自分」に、無意識
に動かされ、そこに自分を見い出せない。
無意識によって動かされている自分は、常に求めている。
常に求めているから、そこに「承認できる自分」は見い出せない。
認めたくない自分、嫌いな自分、肯定できない自分しかいない。
肯定しないのだから、そこにあなたはいない。
たとえ物理的に、カーテンを開けて光を当ててあげるという、与える行動をした
としても、その本質は、求めている。 求めているから与えているに過ぎない。
だから、あなたが求めているものは、決して手に入らない。
あなたが求めているあなたには、決して出会うことはできない。
だからそこで、全ての思考と行動を止める。
止めて、消して、空にする。
そして静かに自分の無意識に目を向けると、闇を恐れていた自分に気づく。
この気づきは、意識による。
意識で気づけると、自分はなぜ闇を恐れているのかと思考することができる。
これは意識による考察だ。
無意識から解放され、意識によってそこに自分を生かせると、
光が差していないから薄ぼんやりと輪郭しか見えない、と思えていたものたちが、
なぜ光に照らされていないのか、本当は何によって光を遮られているのか、に気づく。
光を遮っていたのはあなた自身であり、すべては自分自身の影だったのだ、と。
そこに闇があったのではなくて、闇を抱えるあなたがそこにいたことで、
あなたの世界のすべてが影になっていた。
否、影になっていたのではなく、すべてに
影を見い出している自分があったのだ。
意識によって生きるあなたは、次々に気づいていく。
さっきまでと同じ視界を見ながらも、そこにまったく異なる真理を見い出していく。
あなたは光を受けている。
あなたに光が当たっているから、そこに影がある。
その影は、あなたの後ろにできている。
前だと思っていたそこは、後ろだったのだ。
後ろ向きに、輪郭だけうすぼんやりと、彼(彼女)を見ていただけだった。
つまりそこには、あなたもいなければ、彼(彼女)もまたいなかったのだ。
だから、向き直れば、そこに光がある。
あなたはいつだって、光を受け続けている。
光に背を向け続けていたのは、自分自身だったのだ。
影を見ていたのではなく、光を見ないようにしていたのだ。
闇を肯定し続けていたのだ。
否、闇を肯定していたのではなく、もうこれ以上自分が傷つきたくなかったのだ。
あなたの無意識は、あなたの望むとおり、傷つきたくないあなたを守っていたのだ。
無意識に。
意識による気づきは、あなたに今までと全く性質の異なる行動を起こさせる。
意識的に。
そしてあなたは、
感謝を見い出す。
ふたたび振り返ると、もうそこには、影は無い。
内側で肯定されていた闇を消し去ったからではない。
あなたの中を空にして、透明になって、遮る存在でなくなったから、でもない。
あなた自身が、照らす存在になったからだ。
与えているのではない。
貢献しているのでもない。
そこにはただ、光を纏ったあなたが存在している、だけなのだ。
金太郎飴は、どこまで行っても、金太郎。
ずっと先まで行くと、少しずつ変化しているものの、結局はどこまで行っても、
少しカタチが変化した金太郎、であるに過ぎない。
無意識の自分に動かされ続けている限り、どこまで行っても、少しずつ良くなって
いるように思えても、少しずつ自分を好きになれているように思えても、所詮それは
目が慣れて薄ぼんやりと輪郭が見えてきただけに過ぎない。
本質的には、何も変わらない。
止めて、消して、空にして、無意識を意識する。
無意識を意識していくと、愛したい、愛されたい、
自分が見えてくる。
遠い昔に居た、居心地のいい、安息の場所。
そう、
子宮から追い出されたあなたは、ずっとあるはずのない子宮を捜し求めていたのだ。
それを愛と呼んで、彼(彼女)や子供に求めようとして、
それを自己実現と呼んで、自分自身に求めようとして、
あるはずのない愛と、愛に生きられる自分を求め続けていたのだ。
無意識に。
愛って何だろう?
昔の子供向けTV番組の主題歌で、
愛って何だ? ためらわないことさ。
愛って何だ? 悔やまないことさ。 っていう歌詞の歌があったっけ。
どれほどの知識を持ってしても、無意識に動かされているあなたは、常に求めている。
常に求めているあなたは、たとえ物理的に誰かに何を与えたとしても、本質的には
何も与えられないし、たとえ知識で愛を語り、物理的に肉体を重ね合わせたとしても、
本質的にはその指先さえ何にも触れてはいない。
そこにあなたはいないから。
そこに彼(彼女)もいないから。
無意識を意識する。
脳によって制御されている二つの目で世界を見るのではなく、無意識を意識することで
あなたのエネルギーによって制御されている第三の目を開き、しかと見る。
見極める。
あなたは感謝というエネルギーを受けている。
エネルギーに満ちている。
無意識から抜け出し、意識によって
自分を生かす。
目を醒まし、その目で意識的に見極める。
それを繰り返し、意識による気づきを重ねていくことで、
あなたは、あなたの
歓びと幸せに一歩ずつ
近づいていく。
ごらん。
君の大切な人は、いつも愛を湛えている。
君が
愛の存在としていつもそこに在るから。
君は意識によって
愛を生きているから、
ためらわないし、
後悔もない。
君は常に
愛を抱いていて、常に
愛に抱かれている。
君は、
君らしく生きている。
光をたたえて、優しく、温かく、力強く、眩いばかりに輝いている。