February 01, 2013

教育のあり方・指導のあり方

昨今の「体罰問題」について。

かつてスポーツやその産業に関わった者として、意見を述べます。


まず、虐待・言葉の暴力(心理的虐待)・性的虐待・無視・ネグレクト...
がDVの定義である以上、殴ったかどうか、グーか平手か、言葉だけ
で手を出したかどうか、という議論は笑止千万で、
尊厳を踏みにじった時点で全てが暴力であり、それは明確な犯罪です。

商業化されている高校野球(甲子園大会)でさえ文部科学省の管轄
であり、学生スポーツは教育の一環である、というのが大前提である
ことを考えると、教育の現場で指導者が犯罪をしたことになります。

プロスポーツや企業に至っては、まさに社会人が犯罪をしていること
になり、愛があるとか無いとかは言い逃れで、刑事罰に値します。

勿論、学校や職場やチームでの、いじめや差別も、同列です。

したがって、
「体罰が日常的に行なわれていた=犯罪の温床であった」
「一度でも体罰があった=そこで犯罪が起こった」

ということに他なりません。


このボーダーラインを引いた時、

体罰に至ってしまう指導者は、指導力・包容力・掌握力が不充分
あるにも関わらず「結果」を求めるために、本来なら、指導者自身の
「指導力・包容力・掌握力」を培い伸ばすために、指導者としてもっと
多くを学ばなければならなかった
ところを、生徒・選手・部下のせい
にして、尊厳を踏みにじるような罰を与えている、「責任のなすりつけ」
による理不尽な「犯罪」なのだ
と言い切れます。


加害者側は「ふざけただけ」でも、被害者側が「いじめられた」と感じた
なら、それは明確ないじめである。
それを踏まえて、「愛があれば・・・」と体罰を容認する人たちに言いたい。


スポーツで薬物が禁止されるのは何故なのか、考えてみなさい。

そこに本当の「愛」があると言うのなら、

なぜ本気で学び、指導力・包容力・掌握力を身につけないのか。
なぜ安易に「犯罪」に手を染めるのか。

その愚かさを悔い改めるべきではないのか。



「褒めて伸ばす」は、部分的であり、それだけを是とするなら、机上論
であると思います。

「叱る」場面も、時として絶対に必要だと思います。

どうやって、子ども達に、選手達に、部下達に
「本気で変わろう」とコミットさせるのか、そこへ導くのか。

そのノウハウを学ばず、研究せず、実践できない人間は、教育や指導
の現場に立つ資格はない
ですし、そのような人材をそのまま教育・指導
者としてに配置・抜擢してしまう管理側もお辞めになっていただきたい、
と思うのですが、いかがでしょうか。


     ・「罰を与えてはいけない」

     ・「育てる」の本質

     ・「経営のあり方と親子愛」

     ・「いじめ」と「虐待」

     ・自尊感情・自己肯定感


今まで水面下にあった問題が、これからもっと噴出してくるでしょうし、
問題のないことまで問題視されることもあろうかと思いますが、

そうやって様々な議論がたくさんなされて、学校もスポーツも企業も、
この国の「教育のあり方」「指導のあり方」が、格段に素晴らしい文化
になっていくことを願ってやみません。


                         ※別項で追記あり