October 29, 2015

タマゴが先かニワトリが先か

ある人は、何もかも思い通りにいかない、と言う。
ある人は、何もかもが思い通りになっている、と言う。

ある人は、苦しいことばかりで生きているのが辛い、と言う。
ある人は、毎日が愛と光に包まれているようだ、と言う。

ある人は、自分はいつも孤独で誰からも必要とされていない、と言う。
ある人は、いつも心が平穏で、安心して、人生を楽しんでいる、と言う。


それは生まれながらに背負った罰ゲームなの?
生まれながらに、幸せになれる人となれない人が決まっているの?


。。。自分は幸せにはなれないのだろうか?
。。。自分は幸せになってはいけないのだろうか?
。。。自分はこのままずっと孤独なんだろうか?

知りたいけど、知りたくない答え。
開けたいけど、開くのが怖い扉。


上手くいかないスパイラルにいる時は、ついそう考えがちだけれど、それは

             「タマゴが先かニワトリが先か」

の議論で、「タマゴが先」を主張する思考に過ぎません。

そうであってほしくない、と思いたくて、精一杯の努力をして、抵抗してきたけれど、
やっぱり生まれながらに違うんだ、と思い知らされることの繰り返し。



でも、
そういう風に生きてきたから生きづらくて、
そういう風に自分で自分を縛り付けてきたから苦しくて。。。

だったら、いっそのこと、根本から逆にしてみたらどうだろう。
少なくとも、僕がこれまでに出会った、僕に光を与えてくれた人たちは、
全員が異口同音にこう断言しました。

             「ニワトリが先に決まってる!!」

「どこまで行けば幸せになれるのか、どこへ行けば幸せになれるのか、じゃなくて、
そもそも、自分が自分らしく満喫できる歓びと幸せに向かって生きているのに、
何かをしなければ、どこかへ行かなければ幸せになれない、って思ってしまった。
そこから違ってしまったんだよ!
タマゴが先って思いたくない>を<ニワトリが先に決まってる>に替えろ!」



目の前に広がる外側の世界は、自分の内側に広がる世界のパラドックス。
外側の世界は全てが色鮮やかではあるが、それは何もかも実体ではない。

失敗を恐れていれば、目の前のそれは、困難を極めたものとして顕れる。
絶対に手に入れたいと思えば、何かを犠牲にすべきものとして顕れる。

いつでも実体は内側にあり、そこにある本質が外側に投影されているに過ぎない。

何かをつかむためには、自分の内側の奥底にある何かをつかむこと。
何かを突破するためには、自分の内側の奥底にある壁を突破すること。
それが成されれば、必然的に、それをつかみ、それを突破し、そこに到達できる。


自分の半生、自分の今を、
【自分は本当の歓びと幸せに向かっていて、常に、本物の愛と祝福に包まれている】
と仮定してみる。

楽しいことも、辛いことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、
本当の喜びと幸せとは何なのかを知り、そこに辿り着くために必要な経験であった。
誰よりも多くの気づきと学びを与えてくれた、本物の愛と祝福が常にそこにあった。
と、とらえてみる。

これまでの全てがそうであったなら、これからの全てもそうであるに違いない。
これからも、歓びと幸せに向かって、愛と祝福に包まれて生きる人生が待っている
と、想定してみる。


そう考えると、

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、もしそれが「必要なもの」なら、
愛と祝福において、必然的に手に入る。

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、それが手に入らないことが必要なら、
愛と祝福において、必然的に手に入らず、もっと大切な気づきや学びを得る。

だから何も恐れず、何もあきらめず、その人生を信頼して、
目の前の課題の1つ1つに全力を尽くし、その度に内面の進化成長を遂げ続けていく。


自分はどこから来て、どこへ行くのか。

想いの源泉から溢れた水は、たくさんの感謝によって水嵩を増し、愛と祝福によって
その流れを導かれ、ずっとずっと流れていく先に、いつか歓びと幸せの大海へと流れつく。
その人生を信頼して、自分の意志で、身を委ねる。


今日はどんな気づきを得られるのだろうか。
今日はどんな風に階段を1歩踏みしめていけるのだろうか。
今日はどんな愛と祝福が、どんなカタチで顕れるのだろうか。

それを毎日、自分らしく楽しんで生きる。
起こるすべてのことに感謝して、出会うすべての人に感謝して、今日を生きる。

すると、あなたの望みは、最適な順番で具現化していく



想いの源泉、その泉に浮かぶ小舟に寝そべるように、
愛と祝福に満ちた宇宙の中で、ハンモックに揺られるように、
生まれてくる前に、お母さんの子宮の中にいた時の、生まれながらのあなたのままで、

安心して、自分らしく、信頼して、身を委ねて生きる