October 29, 2015

タマゴが先かニワトリが先か

ある人は、何もかも思い通りにいかない、と言う。
ある人は、何もかもが思い通りになっている、と言う。

ある人は、苦しいことばかりで生きているのが辛い、と言う。
ある人は、毎日が愛と光に包まれているようだ、と言う。

ある人は、自分はいつも孤独で誰からも必要とされていない、と言う。
ある人は、いつも心が平穏で、安心して、人生を楽しんでいる、と言う。


それは生まれながらに背負った罰ゲームなの?
生まれながらに、幸せになれる人となれない人が決まっているの?


。。。自分は幸せにはなれないのだろうか?
。。。自分は幸せになってはいけないのだろうか?
。。。自分はこのままずっと孤独なんだろうか?

知りたいけど、知りたくない答え。
開けたいけど、開くのが怖い扉。


上手くいかないスパイラルにいる時は、ついそう考えがちだけれど、それは

             「タマゴが先かニワトリが先か」

の議論で、「タマゴが先」を主張する思考に過ぎません。

そうであってほしくない、と思いたくて、精一杯の努力をして、抵抗してきたけれど、
やっぱり生まれながらに違うんだ、と思い知らされることの繰り返し。



でも、
そういう風に生きてきたから生きづらくて、
そういう風に自分で自分を縛り付けてきたから苦しくて。。。

だったら、いっそのこと、根本から逆にしてみたらどうだろう。
少なくとも、僕がこれまでに出会った、僕に光を与えてくれた人たちは、
全員が異口同音にこう断言しました。

             「ニワトリが先に決まってる!!」

「どこまで行けば幸せになれるのか、どこへ行けば幸せになれるのか、じゃなくて、
そもそも、自分が自分らしく満喫できる歓びと幸せに向かって生きているのに、
何かをしなければ、どこかへ行かなければ幸せになれない、って思ってしまった。
そこから違ってしまったんだよ!
タマゴが先って思いたくない>を<ニワトリが先に決まってる>に替えろ!」



目の前に広がる外側の世界は、自分の内側に広がる世界のパラドックス。
外側の世界は全てが色鮮やかではあるが、それは何もかも実体ではない。

失敗を恐れていれば、目の前のそれは、困難を極めたものとして顕れる。
絶対に手に入れたいと思えば、何かを犠牲にすべきものとして顕れる。

いつでも実体は内側にあり、そこにある本質が外側に投影されているに過ぎない。

何かをつかむためには、自分の内側の奥底にある何かをつかむこと。
何かを突破するためには、自分の内側の奥底にある壁を突破すること。
それが成されれば、必然的に、それをつかみ、それを突破し、そこに到達できる。


自分の半生、自分の今を、
【自分は本当の歓びと幸せに向かっていて、常に、本物の愛と祝福に包まれている】
と仮定してみる。

楽しいことも、辛いことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、
本当の喜びと幸せとは何なのかを知り、そこに辿り着くために必要な経験であった。
誰よりも多くの気づきと学びを与えてくれた、本物の愛と祝福が常にそこにあった。
と、とらえてみる。

これまでの全てがそうであったなら、これからの全てもそうであるに違いない。
これからも、歓びと幸せに向かって、愛と祝福に包まれて生きる人生が待っている
と、想定してみる。


そう考えると、

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、もしそれが「必要なもの」なら、
愛と祝福において、必然的に手に入る。

自分にとっての本当の歓びと幸せな人生において、それが手に入らないことが必要なら、
愛と祝福において、必然的に手に入らず、もっと大切な気づきや学びを得る。

だから何も恐れず、何もあきらめず、その人生を信頼して、
目の前の課題の1つ1つに全力を尽くし、その度に内面の進化成長を遂げ続けていく。


自分はどこから来て、どこへ行くのか。

想いの源泉から溢れた水は、たくさんの感謝によって水嵩を増し、愛と祝福によって
その流れを導かれ、ずっとずっと流れていく先に、いつか歓びと幸せの大海へと流れつく。
その人生を信頼して、自分の意志で、身を委ねる。


今日はどんな気づきを得られるのだろうか。
今日はどんな風に階段を1歩踏みしめていけるのだろうか。
今日はどんな愛と祝福が、どんなカタチで顕れるのだろうか。

それを毎日、自分らしく楽しんで生きる。
起こるすべてのことに感謝して、出会うすべての人に感謝して、今日を生きる。

すると、あなたの望みは、最適な順番で具現化していく



想いの源泉、その泉に浮かぶ小舟に寝そべるように、
愛と祝福に満ちた宇宙の中で、ハンモックに揺られるように、
生まれてくる前に、お母さんの子宮の中にいた時の、生まれながらのあなたのままで、

安心して、自分らしく、信頼して、身を委ねて生きる


  



  



Posted by exceedblog at 03:42clip!
July 16, 2015

夢中で生きる

子供たちの寝顔を見つめる。
大切な人の寝顔を見つめる。

子供だって、子供なりにたくさん背負って生きていて、たくさん頑張って生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

大人は大人で、たくさん背負って、気を張って、頑張って、身にまとって生きていて、
そういうものを全部降ろした、無防備な、生まれたままの本当の姿がそこにある。

ずっと守っていくと決めたもの。
何よりも大切にすると決めたもの。
生涯愛し続けると誓ったもの。
絶対に幸せにすると誓ったもの。


昨晩は、その愛しいものに、そっと、どんな誓いの言葉を残しましたか?
今日は、その愛しいものに、どんな愛を与えましたか?

それを決めた日の自分に、それを誓った日の自分に、今の自分を見せられますか?


愛する我が子の寝顔を見つめてみてください。
大切な人の寝顔を見つめてみてください。


いつまでも色褪せない自分の想い。
ますます深まり続けていく自分の愛。

いつでもそれを感じ続けて、「夢中」になれたなら、
時間も、疲れも、不安も、怖れも感じない、
楽しくて楽しくてたまらない、歓びと幸せと感謝に包まれた日々を生きていける。


あなたは今、どんな愛の中を「夢中」で生きていますか?


  


  



Posted by exceedblog at 11:01clip!
March 31, 2015

その一瞬を振りきれ!

自分の弱さを感じた瞬間。

自分をダメな奴だと感じた瞬間。

自分を役立たずだと感じた瞬間。

.....そう感じた時、その一瞬を全力で振りきる!


達成・到達する人と、しない人、成功する人と、しない人。
いつだって、どちらにも同じコトが起きている。
どちらも一瞬、
不安や恐れが頭をよぎり、負のスパイラルに飲み込まれそうになる。

でもその直後に、全く異なる行動を起こす。

存在否定(自己否定)や罪悪感に苛まれ、どんどん堕ちていくのか。
それとも、
不安や怖れが自分を飲み込む前に、その一瞬の負を全力で振りきるのか。


  弱いんだったら、今日こそ強くなる。

  足りないんだったら、今こそ成長する。

  役に立たないんだったら、今度こそ貢献する。


タイムラグ0で、そう決めて、その一瞬の負を全力で振りきる!

タイムラグ0で、自分を進化成長させて、その一瞬を振りきる!


すべての困難は「進化成長の種」であり、
「進化成長」を阻む最大要因は「罪悪感」「存在否定」だ。


家庭の中で、親子関係で、夫婦・恋人間で、ビジネスで、あらゆる場面で、

壁にぶつかった時、難題にぶち当たった時、不安に苛まれた時、
プレッシャーがかかった時、結果を求める時、選択を迫られた時...


不安や怖れが自分を飲み込む前に、その一瞬の負を全力ではねのける。
今この瞬間、強くなると決める!

何度よぎっても、何度グラついても、何度引き戻されそうになってもいい。
その度に、その一瞬を全力で振りきる!

ただまっすぐ前だけを見て、そのまま進む。

何度転んでも、何度倒れても、何度へこたれそうになってもいい。
その度に、また立ち上がって、信じて進む。


いつだってそれは、ほんの一瞬で決まる。

だから、その一瞬に全てをかけて、駆け抜ける。 その一瞬を振りきる!  


  



Posted by exceedblog at 23:37clip!
February 14, 2015

Salyu [ to U ]

純粋であろうとすればするほど、

真直ぐに進もうとすればするほど、

自分らしく生きようとすればするほど、

時に苦しかったり、悔しかったり、切なかったり、傷ついたりする。


それでも顔を上げて、明日もまた、微笑んで生きよう

もう1日。あと1日。


今日が私にとって、大切な大切なあなたと向き合って生きられる最期の日なんだと思って。

今日が私にとって、愛しい愛しいあなたに寄り添って生きられる最期の日なんだと思って。


どんなに傷ついても、

あなたの想いは、そんなものでは砕けない。色褪せない。


だから、大丈夫。


明日もまた、微笑んで生きよう。

何も怖れずに、大切な人を、愛する人を、自分自身を、全力でHUGしてあげよう。


  


  



Posted by exceedblog at 05:03clip!
January 28, 2015

どうしたら幸せになれるのか

小学5年生になる娘は、小学1年生の時に気管支喘息で入院して、以降
学校も休みがちで、体育の授業も半分は見学、そして薬漬けの毎日になった。

娘も出演が決まっていたミュージカルの稽古を心の支えに頑張っていたが、
医者からは、健康を取り戻すのには10年かかる、と言われた。

2年生に進級する時に空気の良い地域に引越して、薬を捨てて、スポーツを
始めて、今では毎年ほぼ皆勤賞で、すっかり健康優良児になった。


それでもやっぱり運動は苦手で、運動会のかけっこは毎年ビリ争いしていて、
水泳の授業では2歳下の弟と同じ級、野球チームでは弟がレギュラーなのに
自分は補欠、先日参加したマラソン大会ではビリから3人目...という状態だが、

本人は、運動会も、水泳も、野球も、大好きで楽しんでいる。

勿論、友達に笑われることもあるし、バカにされることもあるし、凹むこともある。
でも反対に、出発点がとても低いので、上達の度合いがわかりやすくて、
努力した分だけ自分で手ごたえを感じられるし、周囲もその努力や上達を
認めてくれるので、やりがいがあるようだ。

そして何より、いつも見学しているだけだった運動を、みんなと一緒にやれる
こと、自分なりにチャレンジできることに、とても喜びを感じられるらしい。

将来はパティシエールになって、みんなが幸せな気持ちになれるお菓子を、毎日
作れる健康な自分になるために、楽しんで運動にチャレンジしているのだそうだ。


上手じゃなくても、他人より劣っていても、失敗しても、笑われても、凹んでも、
それは決して最悪なんかじゃない。
本当の最悪っていうのは、そのチャレンジさえも「できない」ことなんだと思う。

「やりたいこと」「好きなこと」「なりたいもの」のためにチャレンジできる今日がある
ことに、心から感謝して、どれだけ喜べるか・楽しめるか・夢中になれるか。

そんな我が子を誇りに思うし、いつも幸せを感じさせてもらっている。
つくづく、子育ては親を育ててくれるものだと思う。





誰でもみんな、「弱さ」と「怖れ」を抱えて生きている。

それを悟られないように。
それに負けないように。
それを乗り越えようとして。

でも、責められたり、わかってもらえなかったり、ないがしろにされたりすると、
心をえぐられるような気がして、もう堪えられなくなって、ずっと心の奥深くに
押し込み続けてきたモノが一気に噴出してしまう。


  どうせ自分は見た目も悪いし、頭も良くないし、とりえもないし、腹黒いから、
  本当の自分を見せたら、誰も必要としてくれなくなってしまう!

  だから、いつもみんなに必要としてもらえるように、喜んでもらえるように、
  嫌われないように、ずっと自分を演じて頑張ってきたのに!

  なのに、みんな都合のいい時だけ友達面したり、優しい言葉をかけてくる
  けど、実は影では笑っていて、結局いつか離れて行ってしまう!

  やっぱり自分は誰にも必要とされていない!
  誰にも信じてもらえない、わかってもらえない、誰も信じられない。。。!!


それでも、
本当はそんな自分を変えたくて、
本当は誰かのせいにしたくなくて、
本当は人を信じたくて、誰かとわかりあいたくて、

自分自身を信じてあげたくて、
自分自身を認めてあげたくて、
自分自身を幸せにしてあげたくて。。。また考え込む。


  どうしたら自分らしく生きられるんだろうか。
  どうしたら自分のことを好きになれるんだろうか。

  どうしたら感謝を感じて生きていけるんだろうか。

  どうしたら幸せになれるんだろうか。
  どんな風に生きれば私も幸せになれるんだろうか。


自分を信じてあげたいんだよね?
自分を認めてあげたいんだよね?
自分を幸せにしてあげたいんだよね?

だけど、「できない」んだよね?


でも、本当に「できない」んだろうか?

本当は、「できる」か「できない」かの問題じゃなくて、
「やりたい」か「やりたくない」かの問題なのかもしれない。


もし、本当は「やりたい」んだったら、
「やりたいこと」「好きなこと」「大切なこと」「なりたいもの」なんだったら、

たとえ上手にできなくたって、
たとえ他人より下手だって、
今はとても困難な環境にいたって、
何度も失敗したって、何度も休んでしまったって、

今日という日があることに、明日という日が来ることに、心から感謝して
楽しんでチャレンジしていいんだよね?


自分を信じていいんだよ。
自分を認めてあげていいんだよ
自分を好きになっていいんだよ

今世あなたが参加しているマラソン大会は、たとえ人より遅くたって、
コースを間違えてしまったって、あるいは何年もかかってしまったって、
いつかちゃんとゴールできたら、誰もが金メダルをもらえるレースなんだ。


あなたは、幸せになっていいんだよ

あなたという存在が、誰かを幸せにしているんだよ。


  


  



Posted by exceedblog at 08:02clip!
December 25, 2014

ターニングポイント

中学3年生の時、毎年、国立競技場に区内の全中学生が集まって行なわれ
ていた陸上記録会に、800m走の学校代表選手として出場した。

本番ではそれなりに入賞の自信もあったので、入念にウオーミングアップを
済ませて、フィールド脇の集合場所で待機し、いよいよスタートライン前へ
移動するよう指示が出た時、

いきなり、補欠選手が僕の両脚を全力で蹴り始めた。


他校の選手も見ている中で、彼は何発も何発も僕のふくらはぎや足首に蹴り
を入れ、そして叫んだ。 補欠としての自分の屈辱を。

補欠としての屈辱、最後まで選手に帯同してスタートラインには立てない屈辱。
そういったものを全て爆発させて、彼は僕の脚を蹴り続けた。


大声をあげて大人を呼ぶか、やられたらやり返すか、レースを棄権するか、
一瞬で思いをめぐらせて出した結論は、何事もなかったことにする、だった。
スタートラインでピストルを持っているのは部活の顧問として大変お世話に
なった先生であり、恥をかかせるわけにはいかなかったからだ。

彼の目をじっと見て、何もなかったものとしてその場を後にしたのだが、
スタートラインに立った時、すでに僕の両ふくらはぎは引きつって痙攣し、
右足首は捻挫して、歩くだけでおかしな音をたてていた。

そして当然、それなりの自信があったはずのレースでは、1週ももたずに
失速し、区内の全中学生が見ている前で屈辱の最下位でゴール。
それまで積み重ねた努力も練習も、すべてが木っ端微塵になったわけだ。

そればかりでなく、この時に傷めた両膝の十字靭帯と足首の靭帯の怪我
にはその後も悩まされ、高校3年生の一番大事な時にメスを入れなければ
ならなくなった。


この事件については、ついに卒業するまで誰にも話すことはなかったのだが、
それは、この事件を最下位の言い訳にしたくないから、ということ以上に、
レース後にフィールドでぼんやりと考えたことによる。



この理不尽な出来事が、もしも、僕の人生においてプラスの意味を持つ日が
来るとしたら、それは果たしてどんなカタチで起こるのだろうか。

この出来事は、彼が僕に何をしたかじゃなくて、世の中で起きているどんな
出来事と同じで、誰が誰にしていることと同じ本質を持つものなのか。

そして僕は今日、一体何を垣間見て、何を知り、それは僕が請け負っている
人生のミッションと、どうリンケージしているのか。


。。。フィールドの端に座って、僕はずっとそれを考えていた。

それを今ここで見つけておかないと、

たとえ怪我させられたことを最下位の言い訳にしたとしても、
たとえ補欠の彼を犯人として吊るし上げたとしても、
たとえ自分に正論を言い聞かせ、耐えてこの場では飲み込んだとしても、

目先の問題や感情は解消されるかもしれないが、この理不尽な暴力、暴言、
屈辱、尊厳の崩壊、孤独感、やりきれなさ、は、一生僕につきまとい続け、
整理できない記憶が、一生僕を縛って奴隷にするんじゃないのか。



4年生の時に、「自分と同じような、自分の存在意義を肯定できない子供たちの
心に灯りをともし、救い、勇気づけるようなメッセージを発信することで、彼らの
人生に影響を与えるような生き方をしていきたい。」と誓いを立てていた僕が
感じとったのは、

もしかして、この理不尽な暴力、暴言、屈辱、尊厳の崩壊、孤独感、やりきれなさ
を抱えてその奴隷になって生きているのは、「子供たち」に最も影響を与える存在
である「お母さん」たちの姿なんじゃないのか。

誰かが全力でそこに踏み込んでいかなければ、世の中の実態は変わらない
んじゃないのか。 それをやりきることが、「言っていること」と「やっていること」、
「生き方」と「あり方」を一致させることなんじゃないのか。

たぶん、当時はそんな立派な言語ではなかったのだろうけれど、そういう風に
解釈したし、それが、本当の意味での今の原動力になっているように思う。



僕は、【すべての物事には意味がある】とは、あまり思わない。

要約してしまうとそういうことになるのかもしれないが、

そもそも、すべての物事は、そういう風に見えた、思えた、感じられた、認識した、
という自分の勝手な解釈の問題であり、大局的に見た時、そこにある真実は、
自分はそう解釈した、しかし誰々はこう解釈したようだ」という、状態に過ぎない。

すべての物事を、どう解釈し、その後の人生にどう活かすか

そこに意味が生まれ、そこからの行動に意義が生まれる、のだと思う。


自分自身の存在意義も、事業の存在意義も、同様のところにあるものだと思う。  


  



Posted by exceedblog at 06:36clip!
September 13, 2014

目を醒ます

光あるところに影がある。

でも、影ができるのは、目の前にある何かが光を受けているからであって、
それが影になるわけではなく、影はその後ろにあるのだ。


光と対をなしているのは闇。

でも、たとえどんな闇があったとしても、そこに闇という「モノ」が存在している
わけではなく、闇とは、光が差していない「状態」にすぎない。

あなたがどんな闇の中を生きていたとしても、そこにどんな闇を抱えていても、
やはりそれは、光が差していないという状態にすぎない。


存在しないモノを恐れて目を閉じてしまわずに、目を開け、目を凝らして見る。
やがて目が慣れてくると、薄ぼんやりと、輪郭が見えてくる。

そして、そこに充分な光が差していないだけなのだと気づく。

無意識に。


この無意識の気づきは、光というものが存在する、というあなたの知識による。


でも、そこで闇が闇でなくなった次の瞬間、人はもっと良く見えるようにと、
光を求めて、光源を探し始める。 遮っている何かを探し始める。

無意識に。


その無意識は、闇を恐れる自分のココロからくる。
その無意識は、闇の存在を肯定しているココロから出発している。


そう、そこにあった。
確かにそこに、自分の内側に闇があったのだ。

知識ではわかっていても、頭では、闇は「闇という得体の知れないモノ」ではない
とわかっていても、それでも尚、自分を動かしている無意識は、闇を肯定している。

それがある限り、どこまで行っても、あなたは「闇を恐れている自分」に、無意識
に動かされ、そこに自分を見い出せない。


無意識によって動かされている自分は、常に求めている。

常に求めているから、そこに「承認できる自分」は見い出せない。
認めたくない自分、嫌いな自分、肯定できない自分しかいない。

肯定しないのだから、そこにあなたはいない。

たとえ物理的に、カーテンを開けて光を当ててあげるという、与える行動をした
としても、その本質は、求めている。 求めているから与えているに過ぎない。

だから、あなたが求めているものは、決して手に入らない。

あなたが求めているあなたには、決して出会うことはできない。



だからそこで、全ての思考と行動を止める。
止めて、消して、空にする。

そして静かに自分の無意識に目を向けると、闇を恐れていた自分に気づく。


この気づきは、意識による。


意識で気づけると、自分はなぜ闇を恐れているのかと思考することができる。

これは意識による考察だ。



無意識から解放され、意識によってそこに自分を生かせると、

光が差していないから薄ぼんやりと輪郭しか見えない、と思えていたものたちが、
なぜ光に照らされていないのか、本当は何によって光を遮られているのか、に気づく。

光を遮っていたのはあなた自身であり、すべては自分自身の影だったのだ、と。


そこに闇があったのではなくて、闇を抱えるあなたがそこにいたことで、
あなたの世界のすべてが影になっていた。
否、影になっていたのではなく、すべてに影を見い出している自分があったのだ。

意識によって生きるあなたは、次々に気づいていく。
さっきまでと同じ視界を見ながらも、そこにまったく異なる真理を見い出していく。



あなたは光を受けている。

あなたに光が当たっているから、そこに影がある。
その影は、あなたの後ろにできている。

前だと思っていたそこは、後ろだったのだ。
後ろ向きに、輪郭だけうすぼんやりと、彼(彼女)を見ていただけだった。
つまりそこには、あなたもいなければ、彼(彼女)もまたいなかったのだ。

だから、向き直れば、そこに光がある。
あなたはいつだって、光を受け続けている。

光に背を向け続けていたのは、自分自身だったのだ。
影を見ていたのではなく、光を見ないようにしていたのだ。
闇を肯定し続けていたのだ。
否、闇を肯定していたのではなく、もうこれ以上自分が傷つきたくなかったのだ。

あなたの無意識は、あなたの望むとおり、傷つきたくないあなたを守っていたのだ。

無意識に。



意識による気づきは、あなたに今までと全く性質の異なる行動を起こさせる。

意識的に。

そしてあなたは、感謝を見い出す



ふたたび振り返ると、もうそこには、影は無い。

内側で肯定されていた闇を消し去ったからではない。
あなたの中を空にして、透明になって、遮る存在でなくなったから、でもない。


あなた自身が、照らす存在になったからだ。


与えているのではない。
貢献しているのでもない。

そこにはただ、光を纏ったあなたが存在している、だけなのだ。



金太郎飴は、どこまで行っても、金太郎。

ずっと先まで行くと、少しずつ変化しているものの、結局はどこまで行っても、
少しカタチが変化した金太郎、であるに過ぎない。

無意識の自分に動かされ続けている限り、どこまで行っても、少しずつ良くなって
いるように思えても、少しずつ自分を好きになれているように思えても、所詮それは
目が慣れて薄ぼんやりと輪郭が見えてきただけに過ぎない。

本質的には、何も変わらない。


止めて、消して、空にして、無意識を意識する。


無意識を意識していくと、愛したい、愛されたい、自分が見えてくる
遠い昔に居た、居心地のいい、安息の場所。

そう、
子宮から追い出されたあなたは、ずっとあるはずのない子宮を捜し求めていたのだ。
それを愛と呼んで、彼(彼女)や子供に求めようとして、
それを自己実現と呼んで、自分自身に求めようとして、
あるはずのない愛と、愛に生きられる自分を求め続けていたのだ。

無意識に。



愛って何だろう?

昔の子供向けTV番組の主題歌で、

愛って何だ? ためらわないことさ。
愛って何だ? 悔やまないことさ。  っていう歌詞の歌があったっけ。


どれほどの知識を持ってしても、無意識に動かされているあなたは、常に求めている。

常に求めているあなたは、たとえ物理的に誰かに何を与えたとしても、本質的には
何も与えられないし、たとえ知識で愛を語り、物理的に肉体を重ね合わせたとしても、
本質的にはその指先さえ何にも触れてはいない。

そこにあなたはいないから。
そこに彼(彼女)もいないから。



無意識を意識する。

脳によって制御されている二つの目で世界を見るのではなく、無意識を意識することで
あなたのエネルギーによって制御されている第三の目を開き、しかと見る。 見極める

あなたは感謝というエネルギーを受けている。
エネルギーに満ちている。


無意識から抜け出し、意識によって自分を生かす

目を醒まし、その目で意識的に見極める。

それを繰り返し、意識による気づきを重ねていくことで、
あなたは、あなたの歓びと幸せに一歩ずつ近づいていく



ごらん。

君の大切な人は、いつも愛を湛えている。

君が愛の存在としていつもそこに在るから。


君は意識によって愛を生きているから、ためらわないし、後悔もない

君は常に愛を抱いていて、常に愛に抱かれている


君は、君らしく生きている。

光をたたえて、優しく、温かく、力強く、眩いばかりに輝いている。



  


  



Posted by exceedblog at 03:45clip!
August 02, 2014

すべてを乗り越えて

つらい時に、ほんの少しだけ、口角を上げて微笑む。

崩れ落ちそうな時に、ゆっくりと顔を上げて、微笑む。


今までだって、数え切れないほど、打ちのめされ、泣き崩れ、
結果に落胆し、自分に失望し、あきらめそうになったけれど、
その度に何度でも戻ってきたではないか。


崩れ落ちそうな自分にベクトルを向けない。
そのまま堕ちていってしまいそうになるのを必死で踏みとどまって、
そんな今の自分でも、目の前の大切な人のために今何ができるか
を必死で考える。

何もできそうもになかったら、何も言葉が出てこなかったら、
今の自分にできる精一杯の微笑みをもって、大切な人を愛しむ。

昨日までの自分なら、きっと打ちのめされていたであろう場面で。
昨日までの自分なら、誰かに救いを求めていたであろう場面で。


そうして、昨日までの自分を越えていく。 自分を成長させていく。

その道を歩み続ける。


  


  



Posted by exceedblog at 03:31clip!
April 22, 2014

360度の虹を感じて

どんなにつらい時も、悲しい時も、希望を見い出せない時でも、
それは断片に過ぎなくて、それが全てではないし、真実でもない。

自分が無価値に思えても、いいところがちっとも見あたらなくても、
それは断片に過ぎなくて、それが全てではないし、真実でもない。

幸せになりたい、歓びに生きたい、変わりたい変えたい、と言うけれど、
断片だけで物事を測っている限り、真実は何1つつかめやしない。


雨上がりの空に架かる虹は、目に見える7色の部分なんてほんの
断片に過ぎなくて、実は、赤の外側や紫の外側にもずっと広がっている。
断片しか見えないだけで、本当は360度の満天に光り輝いている。

見えないだけで、見たことがないだけで、確かにそれはそこにある。


何百人に、無理だと言われたのですか?
何千人に、駄目だと言われたのですか?

あなたに対して何百回も、何千回も、
それは無理だ、駄目なヤツだ、無価値な存在だ、って言ったのは、
断片だけで物事を測っている自分自身に他ならないのです。


見えないけれど、見たことがないかもしれないけれど、
確かにそこにあるもの。 希望、未来、成長、可能性。。。

見えないモノを感じる、感じとる。

昨日よりも今日、今日よりも明日、
もっと感じて、もっと感じとって、そこにある真実に確信を持てるまで、
自分自身に、何万回だって言い聞かせてあげよう。

「君には素晴らしい価値があって、眩しい未来が待っている!」って。


君は、幸せになっていいんだよ。  


  



Posted by exceedblog at 22:09clip!
April 18, 2014

何を損なったのか

子供たちの夕食作りに間に合うように、昼食を抜いて仕事して、1本でも早い接続で
帰れるようにと駅構内を走って電車に乗り、窓ガラスの雨粒を見て、がっくりする。

今朝、出掛けにせっかく洗濯してきたのに、これじゃぁビショ濡れだ。。。

最寄り駅の駅ビルのお店で、パソコンの入った重たいバッグを片手に、大急ぎで店内
をまわって食材を購入するが、時間との戦いで、ゆっくり選ぶことなんてできない。

これとこれは近所のスーパーの方が安いんだけど、仕方がないよな。。。

折りたたみ傘を広げても横殴りの雨でビショ濡れになりながら、手荷物をいっぱいに
抱えて、指先がちぎれそうになりながら、必死に自分を鼓舞して階段を上がっていく。

惨めなんかじゃない。子供たちのためなんだから、ちっとも格好悪くない。。。

笑顔で迎えてもらえると信じてドアを開けると、宿題もしないでテレビを観ていて、
雨が降っているのに窓が開けっ放し。おかえり、さえも言ってもらえない。。。

怒るより先に、ベランダの洗濯物を取り込まなくちゃ。。。

こんなことは小学生の時からずっとなんだから、今さら何とも無いって言い聞かせる。
でも、疲れきって、心も折れて、そのままベランダに立ちすくんで、濡れながら思う。

自分、一体何をしているんだろう。。。orz


 ※世のお父さんは、自分の奥さんが毎月何度もこんな状況と向き合っているんだ、
  っていうことを知っておく必要があると思う。



だからと言って、
それで自分は、何かを損なったのだろうか。

否、何も損なってなどいない。

家にたどり着いたのが自分じゃなくて、犯罪者だったら。
雨に濡れたのが自分や洗濯物じゃなくて、子供だったら。
惨めで切ない思いをしたのが自分じゃなくて、子供だったら。

守りたい大切な存在がそこにそのまま居る時点で、何も損なってなどいない。


耐え切れなくて、怒鳴ってしまうことや、切れて叫んでしまうこともあるかもしれない。
そうして後で、自分は優しい子育てができないダメな親だと涙を流すのかもしれない。

だからと言って、
それで子供は、何かを損なうのだろうか。

否、何も損ないなどしない。

自分の親が、自分のためにそんなに頑張っていることに気づき、感謝できる。
親の本音を聞けて、自分には何ができるだろうかと考えるようになる。
いつか自分も親になった時、辛くなった時、親の気持ちがわかって頑張れる。



苦しい時、切ない時、報われない気がする時に、自分に問いかけてみてください。

それで自分は、何かを損なったのだろうか。
それとも、そのことで大切な何かが育まれたのだろうか、と。



物事は常に、正解の反対に全く違うもう1つの正解がある。

そこに目を向けることができると、
報われないように思える物事や、やらされたと思える出来事が、全て無駄ではなかった
ことを知り、誰も認めてくれなくても、自分で自分を認めてあげることができる。


誰だって、認めてほしいんだ。  


  



Posted by exceedblog at 14:12clip!